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ジャッキー佐藤(1957~1999)

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ジャッキー佐藤(じゃっきーさとう)

プロレスラー
1957年(昭和32年)~1999年(平成11年)

1957年(昭和32年)、神奈川県横浜市港南区に生まれる。本名は、佐藤 尚子(さとう なおこ)。川崎市立桜本小学校在校時から長身でスポーツは万能だった。その長身を生かし、横浜市立浜中学校に在学中はバスケットボール部で活躍。1973年(昭和48年)、バスケットボールの強豪校であった神奈川県立商工高等学校に入学。1年生の時からインタハイに出場し、有望選手として注目されるが、学校を2年で中退し、全日本女子プロレスに入門。同年4月27日、マキ上田戦でデビューを飾る。 1976年(昭和51年)2月24日、マキ上田とビューティ・ペアを結成。その日に行われたWWWA世界タッグ王座戦で、赤城マリ子・マッハ文朱ペアに勝利し、WWWA世界タッグ王座を獲得した。タッグでの必殺技は、ジャッキーがボディスラムで投げつけた相手にマキがコーナー最上段からダイビング・ボディ・プレスを決める「ビューティ・スペシャル」だった。また、RVCより『かけめぐる青春』でレコードデビューし、試合前のリング上で歌う斬新なスタイルで、女子プロレス界のアイドル的存在となる。しかし、レコードを出した当初は鳴かず飛ばずであり、観客席も閑散としており、全日本女子プロレスの経営は破綻寸前であった。その後、福山の試合後にジャッキー佐藤の元に鉢巻を巻いたファンが2~3人現れたのが最初で、その後の千葉公園体育館でほぼ満員、横浜文化体育館で超満員になりブームに火が付いた。『かけめぐる青春』も80万枚を売り上げるヒットとなり、『真赤な青春』『青春にバラはいらない』などの曲もヒット。当時のビューティ・ペア人気は凄まじく、試合前のリングで歌を披露する際はリングに紙テープや紙吹雪がいっぱいになった。また、当時人気絶頂だった女性アイドルデュオのピンク・レディーと音楽番組などで度々共演するなど、アイドル的な人気を博した。1977年(昭和52年)11月1日、マキが持つWWWA世界シングル王座に挑戦。この試合はビューティ・ペア同士の対決として注目され、互いに譲らず60分時間切れ、判定でタイトルを獲得した。マキによると、現役時代は社交的なマキと一匹狼的なジャッキーとは性格的に合わず、あまり仲は良くなかった。そのため、試合後などもほとんど会話をすることがなく、プライベートにいたっては、遊んだりしたことは一度もなかったという。1979年(昭和54年)、性格による微妙なズレからビューティ・ペアとしての活動に限界を感じたマキは、解散することをジャッキーに一言の相談もなく一人で決めて社長に直談判した。社長から「それなら最後にお前たち二人で試合をやって、負けた方はプロレスラーを引退しろ」と条件を提示され、マキはそれを受け入れた。しかしジャッキーは、そんな裏事情を知らされないまま突然ビューティ・ペアの解散・女子プロレス引退を懸けた試合をすることになった。2月27日、「敗者引退」という過酷なルールでのマキとの再対決は48分7秒、エビ固めでジャッキーが勝利し、マキは引退。ビューティ・ペアに終止符が打たれた。試合直後、二人はお互いの控室を訪れることもなく、一言の会話することもなく解散した。これについてマキは、「引退をかけた試合に負けた自分から話しかけるのもヘンだからという理由で声をかけづらかった」とのこと。対してジャッキーは、「別に永遠に会えなくなるわけじゃない、お互いそれぞれの道を歩んで将来一人の人間として大きくなった時に再会したい」と言っていた。マキ引退後は、モンスター・リッパーにWWWA世界シングル王座を奪われるも奪還。1981年(昭和56年)2月25日、横田利美(後のジャガー横田)戦で同王座から転落。5月21日に引退式が行われた。その後、新団体「ジャパン女子プロレス」の設立に参加。1986年(昭和61年)8月17日、対神取しのぶ(後の神取忍)戦で現役に復帰する。しかし、団体内でのトラブルから神取との確執が表面化し、1987年(昭和62年)7月18日の神奈川・大和車体工業体育館大会で神取との一騎打ちが行われた。この試合は壮絶なセメントマッチとなり、神取は容赦ないナックル攻撃を敢行し、柔道仕込みの寝技でねじ伏せて最後は腕がらみで完勝。異様なムードの中で完膚なきまでに叩きのめされたジャッキーは顔を大きく腫らし、当時のプロレスマスコミの間でも「壮絶シュートマッチ」として取り上げられ騒ぎになった。敗れたジャッキーは、1988年(昭和63年)3月20日での試合を最後に現役を引退した。引退直後に体操教室の会社「ジャムナ」を設立。スポーツプログラマー、ヘルスケアトレーナーの資格を取得し、中高年女性を中心に自らが考案した「ジャムナ体操」を教える。マキとはテレビ番組などで顔を合わす事はあったが、ある日マキの方からジャッキーに連絡を取り、後日二人きりで温泉旅行に出かけ、現役時代からは考えられないほど楽しく過ごした。その後ジャッキーから手紙が届き、「この前は本当に楽しかった。また、今度一緒にどこか行きましょう」という内容にマキも再会を楽しみにしていた。しかし、その約1年後の1999年(平成11年)8月9日午前8時41分、胃癌のため神奈川県川崎市の病院で死去。享年41。


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1970年代後半に一世を風靡した「ビューティ・ペア」のジャッキー佐藤。マッハ文朱の流れを汲み、スポーティでアクティヴな試合とリングで歌を披露するそのスタイルが支持され、アイドル的な人気を博した。一方で、音楽番組にも出演。ところが、2人はもともと歌手志望でないため、振り付けはぎこちなく、歌も棒読みのようで決して上手いと言えるものではなかった。この2人の活動が成功した後、元アイドルのミミ(ミミ萩原)のプロレス転向、長与千種とライオネス飛鳥のタッグ・チーム「クラッシュギャルズ」の誕生と、女子プロレスは黄金時代を迎えることになり、ビューティ・ペアはその礎を築く形となった。しかし、ジャッキー佐藤は41歳という若さで胃癌に倒れて死去。今は、神奈川県横浜市の随縁寺に眠る。洋形の墓には「佐藤家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「光院照妙尚日励大姉」。

Commented by ようこ at 2020-10-09 19:06 x
はじめまして。私は小学生の時にビューティーペアのお二人が好きになりまた自分がこの年になりまた改めてビューティーのお二人が好きになりました。前々からジャッキーさんのお墓は鶴見にあるとばかり(お葬式が鶴見で行われたので)思ってましていつか行こう❗と思っていた時に偶然こちらの記事を読み私の家のすぐ近くだったことがわかり(ジャッキーさんご実家がこちらの方だから)初めて今月ジャッキーさんのお誕生日近くになったら行ってきます。ホントにどうもありがとうございました。
by oku-taka | 2020-07-25 18:14 | スポーツ | Comments(1)