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越路吹雪(1924~1980)

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越路 吹雪(こしじ ふぶき)

シャンソン歌手・女優
1924年(大正13年)~1980年(昭和55年)

1924年(大正13年)、東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区麹町)に生まれる。本名、内藤 美保子(ないとう みほこ)、旧姓は、河野(こうの)。中野区立野方小学校を卒業後、堀越高等女学校に進学したが、在学中に父の転勤に伴い新潟へ移る。子供の頃から歌が好きで、ラジオから流れる曲をよく口ずさんでいた。その様子を目にしていた父が、娘に好きな歌を思う存分歌える場所として宝塚歌劇団入団を薦め、1939年(昭和14年)に長野県飯山高等女学校(後の長野県飯山南高等学校、現在の長野県飯山高等学校)を中退し、宝塚音楽歌劇学校(現在の宝塚音楽学校)に27期生として入学。このとき、父親が名づけた「越路吹雪」を芸名とした。同期生に月丘夢路、乙羽信子、東郷晴子、大路三千緒らがいる。「清く正しく美しく」のスローガンで知られる宝塚で越路は喫煙や門限破りをするなど異色の存在であり、「不良少女」というあだ名を付けられた。一方で、越路は人の面倒見が良く、多くの芸能人から慕われた。新人時代には、宝塚歌劇団編集部に勤めていた岩谷時子に「自分のサインの見本を書いてほしい」と相談を持ちかけ、その後、岩谷は気づけば越路の付き人の役割を担うようになるなど、2人は意気投合する。1939年(昭和14年)2月、宝塚歌劇団・月組公演『宝塚花物語』で初舞台を踏む。この時の役は、たくさんいるたんぽぽの精のうちの1人だった。その後、花組の所属となり、1943年(昭和18年)の公演『航空母艦』で浪曲師・広沢虎造のものまねをして演じた森の石松が評判となり、この頃から注目を集めるようになる。1944年(昭和19年)、宝塚大劇場が戦争によって閉館。戦況が悪化するとともに、先行きを不安視し退団する生徒が続出した結果、若手たちが台頭し始める。越路はその筆頭となり、優れた歌唱力をもつ男役として花組のトップスターとなった。終戦後、宝塚が再開した1946年(昭和21年)の第2回花組公演で主演を務めた『ミモザの花』が好評を博す。1949年(昭和24年)、『ブギウギ巴里』でコロムビアからレコードデビュー。戦後の宝塚で最大のヒットとなった。1950年(昭和25年)、宝塚在籍のまま東宝映画『東京の門』『エノケンの天一坊』などに出演。NHK『愉快な仲間』のレギュラーとしても活躍した。1951年(昭和26年)、第1回帝劇コミック・オペラ『モルガンお雪』に主演。この舞台の主演によって、越路が国産ミュージカル女優第一号となった。同作の大ヒットを機に、同年7月31日『マダム貞奴』出演中に宝塚を退団。このとき、小林一三が「一人では不安だから」と岩谷を同行させ、越路の付き人となった。以降、岩谷は会社員として働く傍ら越路をサポートし、越路が亡くなるまでの約30年間、マネージャーとして強い信頼関係で支え続けた。退団後は、東宝の専属女優として主にミュージカルで活躍したほか、映画にも多数出演。市川崑監督の喜劇『足にさわった女』『プーサン』『愛人』『ぼんち』などでトボケた味のある洒脱な演技や、マキノ雅弘監督の『次郎長三国志』で男まさりの女房役などを好演した。1952年(昭和27年)、当時は正月開催だった『第2回NHK紅白歌合戦』に出場。当初出場予定だった松島詩子を乗せた車がNHKに向かう途中で都電と衝突する事故を起こし、重傷を負ったことで出場が不可能になったため、急遽越路が代わりに出場し、これが紅白初出場となった。その後、紅白には第20回まで通算15回出場。第21回には出場を辞退した。辞退の理由は「ジーンズ姿の歌手(おそらく前年初出場したカルメン・マキを指しているものと思われる)と一緒に並んで出るのが嫌」だったからと伝えられているが、岩谷の証言に拠れば、1月に舞台出演が多くなり主演をしている立場として紅白のために舞台稽古を止めて歌合戦の稽古に出るのは舞台人として迷惑をかけることであることから、岩谷は越路リサイタルの演出家である浅利慶太に相談し、浅利と伴にNHK会長と話し合い、卒業という形で解決したという。9月、二葉あき子の代役で日劇のショー『巴里の歌』に出演することになり、当ショーの音楽監督を務めていた作曲家の黛敏郎から『愛の讃歌』を勧められる。「日本語でしか歌いたくない」という越路の求めに応じ、岩谷はフランス語に長けた黛の弾くピアノと黛による歌詞の訳を聞きながら『愛の讃歌』の日本語詞を完成させた。1953年(昭和28年)春、初めてフランス・パリへ渡り、エディット・ピアフのステージを聴く。ピアフのステージを生で聴いた越路は大きな衝撃を受け、当時の日記には「エディット・ピアフを初めて聴く。オーケストラ、ジェスチャー、アレンジの素晴らしさに私は悲しい。ピアフを二度聴く。語ることなし。私は悲しい。夜、一人泣く。悲しい、寂しい、私には何もない。私は負けた。泣く、初めてのパリで。」と書き残した。以降、シャンソンに対する情熱を深め、『ラストダンスは私に』『サン・トワ・マミー』『ろくでなし』など、作詞家の岩谷時子とともに数多くの曲を日本に紹介し、ヒットを放つ。一方、パリからの帰国後、第1回リサイタルを東京銀座のヤマハホールで開催。以後はほぼ年に1回のペースでヤマハホールを拠点にリサイタルを開催した。1958年(昭和33年)、テアトロン賞を受賞。1959年(昭和34年)、作曲家の内藤法美と結婚。夫妻に子はなかったが、内藤とは越路自身の逝去まで連れ添い、内藤は越路が亡くなるまでリサイタルやディナーショーの構成、作曲、編曲、指揮などを手掛けた。プライベートでは家事の一切を越路が仕切り、特に掃除の腕前は素晴らしかったという。テレビ出演はほとんどしないことでも有名であったが、1964年(昭和39年)8月31日から始まったフジテレビ系音楽番組『ミュージックフェア』の司会者に就任。また、希にテレビ出演する際は、「お久しぶりのテレビでございます」と、視聴者へ挨拶をした。1965年(昭和40年)、『ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー』で第7回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。同年、初めて日生劇場でリサイタルを開催。1966年(昭和41年)からは劇団四季の演出家である浅利慶太が演出、日本ゼネラルアーツ(浅利の舞台制作会社)の制作により、歴史に残る越路吹雪の日生劇場リサイタルが開催された。公演は大きな反響を呼び、1968年(昭和43年)には公演期間は11日間に伸び、文化庁芸術祭奨励賞を受賞。東宝を退社し、フリーに転身した翌1969年(昭和44年)からは空前絶後の約1ヶ月におよぶロングリサイタルとして開催された。ロングリサイタルでは、越路が単独で歌い演ずる形式だけではなく「ドラマチックリサイタル」と称する意欲的な作品も制作され、これは越路吹雪と劇団四季とのタイアップで行われた。その最大のヒット作は1971年(昭和46年)初演の「愛の讃歌-エディット・ピアフの生涯」であり、このほか『結婚物語』『アプローズ』『メイム』など、ロングリサイタルの一演目として披露された。リサイタルはさらに好評を博し、1972年(昭和47年)以降はほぼ春・秋に公演され、秋の公演後は全国縦断公演も行った。1970年代当時、最もチケットの入手が困難なライブ・ステージのひとつともいわれ、「ロングリサイタル」は歌手・越路吹雪の名声を不動のものとした。越路も客に最高のステージを見てもらう為にコンディション調整を欠かさず、舞台に上がる時間から逆算し、起床時間、食事の時間、劇場入りの時間などを決定し、全ステージを見据えた生活リズムをとるため、いつ舞台があり、その稽古は何日前からか、それには何kg増やしておくか等々、一年を通じて舞台のために日常を過ごすことを常としていた。1980年(昭和55年)3月、新境地開拓として、劇団民藝の宇野重吉による演出で、越路と米倉斉加年の二人だけの芝居『古風なコメディ』に挑戦。その経緯として、ロングリサイタルとミュージカルの両輪が揃った越路に、岩谷と内藤から「越路に芝居を。シェークスピアのマクベス夫人などはどうだろう」という注文が出たが、浅利はこれを固辞し、内藤と親しかった倉橋健を通じて宇野が引き受けることになった。岩谷も、かねてより「歌のかたわらに念願だった芝居の勉強もしておきたい」と越路に相談しており、浅利の諒承を得て『古風なコメディ』に出演することになった。同作は福岡で5月27日から上演され、その後東京では連日大入りの好演となり、6月5日から22日までの公演であったところ追加公演が行われた。しかし、公演中より越路は胃の不調を訴え、西武劇場(現在のPARCO)にて胃の激しい痛みを堪えつつ舞台を務めるも、公演終了直後に緊急入院。「重度の胃潰瘍」との診断を受け、7月8日に東京都目黒区の東京共済病院で、胃の5分の4を切除する大手術を受けた。しかし、本当の病名は胃潰瘍ではなく「末期の胃癌」で、腹膜にも多数の癌が転移していたが、当時本人には告知されなかった。越路は術後の復帰を目指してリハビリに励んだが、その後も入退院を3回繰り返す。死の直前、病床に臥し意識が朦朧とする中で「法美さんにコーヒーを」と、最期まで最愛の夫を気遣った。11月7日午後3時2分、東京都目黒区の東京共済病院にて胃癌のため死去。享年56。越路は両親と実兄を共に癌で亡くしていることから、自身も一番癌を怖れ、毎年の癌検診を欠かさなかったが、たまたま死の前年だけ多忙のため検査を先延ばしにしていたという皮肉な結果だった。


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「コーちゃん」の愛称で親しまれた稀代のエンターティナー・越路吹雪。華麗なステージング、圧倒的な存在感、卓越した演技力と歌唱力で多くの人を魅了し、彼女のライブは1970年代当時「最もチケットの入手が困難なライブ・ステージ」と呼ばれた。その高い芸術性と気さくな人柄には多数の著名人も魅せられ、彼女の芸術は常に最高のスタッフ陣が支えていた。彼女のパフォーマンスはエネルギッシュにあふれていて、それを見た幼い私はとても恐怖に感じ、「なんておっかない人なんだ」と思ったのも今は懐かしい思い出である。56年の人生を全力で駆け抜けた越路吹雪の墓は、神奈川県川崎市の本遠寺にある。案内板に導かれる形で階段を昇り続けると、見晴らしの良い高台にある越路吹雪の墓にたどり着く。墓には「越路吹雪之墓」とあり、右側に墓誌が刻む。戒名は「乗法院越路妙華大姉」。左側には、越路が逝った7年8カ月後に亡くなった夫・内藤法美の墓が建つ。こちらの戒名は「乗法院法美日格居士」。
by oku-taka | 2020-07-18 21:50 | 音楽家 | Comments(0)