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藤子・F・不二雄(1933~1996)

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藤子・F・不二雄(ふじこ・エフ・ふじお)

漫画家
1933年(昭和8年)~1996年(平成8年)

1933年(昭和8年)、富山県高岡市定塚町に生まれる。本名は、藤本 弘(ふじもと ひろし)。幼少期は大人しくて真面目で体が弱かったことから壮絶ないじめに遭い、番長格の少年から似顔絵を評価されるまでずっと抜け出せなかった。1944年(昭和19年)、父を亡くして高岡市に転居してきた安孫子素雄(後の藤子不二雄Ⓐ)と出会う。安孫子が休み時間にノートに漫画を描いていたところ、それを見た藤本が話し掛けたことで2人は仲良くなり、いつも一緒に遊んでいた。中学3年の時、手塚治虫の『新宝島』に衝撃と大きな影響を受け漫画家を志す。その後、安孫子と毎日のように書店を訪ね、刊行されたばかりの手塚作品の初版本をほぼ全て買い集めた。この頃、漫画・小説を全て手書きという雑誌のパロディ『少太陽』を制作。中学から高校にかけては、『漫画少年』をはじめとした雑誌投稿をはじめた。当初はそれぞれが単独で投稿していたが、高校2年頃から完全に合作に切り替え、共通の郵便貯金口座を作り、原稿料を管理するようになった。金の管理は、藤本が行っていた。そこから金を引き出し、一緒に映画を鑑賞するようになった。これがきっかけで藤子不二雄名義で描いたもののギャラは全て二分割というスタイルがコンビ解消時まで貫かれた。1951年(昭和26年)、安孫子と共に『毎日小学生新聞』に投稿した「天使の玉ちゃん」が採用され、17歳にして漫画家デビューを果たす。1952年(昭和27年)、二人は高校卒業後は就職することにしたが、漫画家への夢を諦めきれずに卒業直前の春休みを利用して手塚治虫の自宅を訪問。2人が書いた漫画『ベン・ハー』を手塚に見せ、「上手だね」と言われたことでプロになることを決意。その後、二人は漫画家を目指すにあたり、一人でやるより二人でやった方が力になるだろうということで合作を決意。以後、『新宝島』の手塚治虫にあやかり「手塚不二雄」の名で投稿する。しかし、余りにも露骨なため「手塚の足にも及ばない」として「足塚不二雄」名義になった。高校卒業後、藤本は製菓会社へ入社。しかし、作業中の不意の事故により漫画が描けなくなることを恐れ3日で退社。雑誌社へ送る漫画を描き、週末には安孫子も手伝うという状態になった。その後、足塚不二雄にとって初めての連載作品である『四万年漂流』を連載しはじめたが、数回で打ち切られる。1954年(昭和29年)6月10日、渋る安孫子を無理やり誘って上京。寺田ヒロオ、坂本三郎、森安なおや、永田竹丸、と新進児童漫画家のグループである「新漫画党」を結成。この頃描いた『探偵王』の読みきり・『宇宙鉱脈』から、ペンネームを「足塚不二雄」から二人の名前を取って「藤子不二雄」に変更した。やがて手塚治虫がトキワ荘を出たため、藤子不二雄の二人は手塚がいた14号室に入居。お金のない二人のためにトキワ荘の敷金は手塚が肩代わりしており、手塚が使っていた漫画を描く机もそのままにしておいた。トキワ荘入居後、読みきり作品や新漫画党メンバーによる合作などをこなしていくうちに仕事が急増し、毎月10本の連載漫画を持つようになる。しかし、限界を無視して仕事を引き受け過ぎたため、1955年(昭和30年)1月、富山に一時帰省中に連載の〆切を8本落とすという大失態を演じてしまう。以後、一時は漫画家廃業も考えたが、寺田ヒロオの勧めもあり、再びトキワ荘に戻る。約1年間は雑誌社から干されてしまうが、何とか復帰を果たす。この頃より合作ではなく、単独で描いた漫画が徐々に増えていく。また、近所のアパートの一室を借りてその部屋を仕事場とした。1959年(昭和34年)、小学館が創刊した『週刊少年サンデー』に「海の王子」(合作)を連載。1961年(昭和36年)、トキワ荘を出る。1963年(昭和38年)、鈴木伸一・石森章太郎・つのだじろうらとアニメーション・スタジオであるスタジオ・ゼロを結成。1964年(昭和39年)、『オバケのQ太郎』が大ヒット。それまではシリアス志向の作品が多かったが、これにより「ギャグ漫画の藤子不二雄」として広く認知されるようになる。これに続いて『パーマン』(1966年)もヒットとなったが、1960年(昭和35年)頃から劇画が隆盛し、少年誌もそれまでよりもずっと対象年齢が高い漫画を中心に載せるようになった。安孫子は大人向けの漫画に本格的に取り組むようになるが、藤本は基本的には児童漫画に専念。しかし、劇画隆盛の中で『21エモン』(1968年)『ウメ星デンカ』(1968年)『モジャ公』(1969年)といった作品はあまりヒットせず、いずれも短命に終わった。藤子スタジオも、えびはら武司などの一部のアシスタントを除いて、『怪物くん』(1965年)、『黒ィせぇるすまん』(1969年)、『魔太郎がくる!!』(1972年)といったヒット作に当時恵まれていた安孫子の方を中心に手伝うようになった。藤本はスランプに陥り、『週刊少年サンデー』の編集長に「サンデー作家陣から外してほしい。」という手紙を送りつけるようになる。そのため、『週刊少年サンデー』編集部は、ゴンスケをサラリーマン化した新作を提案されたが、藤本は「私は最近の読者層の変質についていけません」とこれを拒否している。その後、青年誌である『ビッグコミック』から執筆を依頼される。藤本は自分の児童向け作調に合っていないという判断で最初は断っていたが、編集者の熱心な要望により、短編の『ミノタウロスの皿』を発表。この作品は編集部でも好評であり、「自分にもこんなものが書けるのかという、新しいオモチャを手に入れたような喜びがありました。」と語っている。1969年(昭和44年)、学年誌にて『ドラえもん』を執筆し始めるが、人気は今ひとつであった。1973年(昭和48年)に日本テレビ動画の製作でアニメ化されるも、すぐに終了。それに伴い、編集部やスタジオ側も、漫画のドラえもんの連載終了の雰囲気であった。しかし、その翌年に単行本が全6巻発売されると話題になり、続刊。『ドラえもん』の人気と比例して藤子不二雄の人気も高まり、1977年(昭和52年)に藤子不二雄作品を中心とした『コロコロコミック』が創刊。1979年(昭和54年)には『ドラえもん』がテレビ朝日系列で二度目のアニメ化。その人気の不動を決定付け、翌年には映画化されるなど、今日まで続くシリーズ作品となる。『ドラえもん』に続いて1980年代には『パーマン』『オバケのQ太郎』『エスパー魔美』『ウルトラB』『チンプイ』が、他局でも『キテレツ大百科』『ポコニャン!』『モジャ公』などが立て続けにテレビアニメ・映画化されるなど各メディアを席巻し、これらのシリーズを複数まとめて放送する番組枠がレギュラー編成されるほどになった。また、SF短篇作品を多数発表し、青年漫画雑誌やSF専門誌などでも発表した。一方、二人が合作を取り止め、それぞれの作品に専念するようになったことは、コンビ解消まで積極的には公言していなかった。そのため、実際には自分の執筆では無い作品について取材を受けたり、コメントをすることもあった。しかし、両者の作風の違いは徐々に読者にも知られるようになり、安孫子は「黒い藤子」、藤本は「白い藤子」とあだ名されるようになった。1986年(昭和61年)、胃癌を発症。手術後に復帰したが、また体調を崩し、以降はしばしば体調を崩すようになる。1987年(昭和62年)、コンビ解消を発表。その理由について、藤本が「実際一緒に作品を描いたのは最初の頃だけで、以降はお互いが別々に作品を描いては藤子不二雄の名前で発表していたものですから、もうここらへんで、お互いに「藤子不二雄のネーム・バリューに頼らず一本立ちしていってもいいんじゃないか」と話し合いコンビを解消しました」と共同で発表した。コンビ解消後、安孫子は「藤子スタジオ」に残り、藤本は「藤子プロ」を立ち上げ、藤子スタジオの隣のビルに移った。安孫子は藤子不二雄Ⓐに、藤本は藤子不二雄Ⓕとしたが、翌年に石ノ森章太郎の薦めにより藤子・F・不二雄へと変えた。以後、SF物など時おり大人向きの作品を手がけながらも『ドラえもん』を中心とした子供向け作品をメインに漫画の執筆を続けた。1992年(平成4年)、肝臓癌が発覚。当時『コロコロコミック』で連載していた大長編ドラえもん作品『のび太と雲の王国』が中断せざるを得なくなり、藤子プロによる絵物語(ビジュアルストーリー)を掲載する事態となった。1996年(平成8年)9月20日、家族が夕飯の準備を告げるといつものように仕事部屋から返事があった。だがいつまで経っても食卓にやって来なかったので娘が仕事場へ呼びに行ったところ、机に向かったまま意識を失っているところを発見した。『ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記』の62頁目を描いている途中で、発見されたときは鉛筆を握ったままだったという。そのまま病院に搬送されたが、意識が回復することなく、9月23日午前2時10分に東京都新宿区の慶應義塾大学病院で肝不全のため死去。享年62。


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国民的漫画『ドラえもん』で知られる漫画家の藤子・F・不二雄。漫画として50年、2度目のテレビアニメ化から40年という長寿作品であり、誕生から現在に至るまで高い人気を保ち続けている。このほか『パーマン』『キテレツ大百科』『エスパー魔美』などもテレビアニメ化され、いずれも人気を博した。今の50代以下で彼の作品を見ていない国民はいないと思うほど、作品を通じて多くの子供に夢と希望を与えた。かくいう筆者も、大山のぶ代・小原乃梨子コンビによる『ドラえもん』を見て育った世代である。1987年のコンビ解消後、時代に合わせた作品やブラックユーモアを手がける藤子不二雄Ⓐに対し、一貫して子供の夢を描き続けた藤子・F・不二雄の墓は、神奈川県川崎市の緑ヶ丘霊園にある。墓には「藤本家之墓」とあり、右側に墓誌が建つ。墓の入口と線香置けの横にはドラえもんが設置されている。

by oku-taka | 2020-07-11 23:38 | 漫画家 | Comments(0)