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神代辰巳(1927~1995)

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神代 辰巳(くましろ たつみ)

映画監督
1927年(昭和2年)~1995年(平成7年)

1927年(昭和2年)、佐賀県佐賀市水ケ江町に生まれる。生家が薬種問屋であったことから、1945年(昭和20年)に徴兵逃れのため九州帝国大学付属医学専門部に入学するも翌年には中退。佐賀高等学校を受験すべく勉強を始めるが、肋膜炎を発症し療養生活を余儀なくされる。旧制早稲田高等学院を経て、1949年(昭和24年)に小説家を志して早稲田大学第一文学部英文科に入学。卒業後の1953年(昭和28年)に松竹京都撮影所助監督部へ入社。1955年(昭和30年)、日活へ移籍し、斎藤武市組のチーフとして“渡り鳥”シリーズを手がける。助監督時代に東宝のスター女優だった島崎雪子と結婚するも、10年ほどで離婚する。1965年(昭和40年)、『かぶりつき人生』で監督デビュー。しかし、日活の衰退期とその内容もあってか、一般作としては日活史上最低の興行失敗となった。そのため、この後の日活の一般作の監督オファーはなかったが、1971年(昭和46年)にロマンポルノ路線で監督に復帰。1972年(昭和47年)に『一条さゆり 濡れた欲情』、1973年(昭和48年)には『四畳半襖の裏張り』でキネマ旬報ベストテンに入選。田中登とともに、ロマンポルノのエースと目される。1974年(昭和49年)、東宝で『青春の蹉跌』を監督。同作はキネマ旬報ベストテン4位という高評価を獲得。以降は、一般映画でも盛名を馳せていき、ロマンポルノを超えて日本映画界の重要監督の一人となっていった「ポルノ、ピンク出身の巨匠」の先駆的存在である。1979年(昭和54年)、『赫い髪の女』でブルーリボン賞作品賞と監督賞を受賞。1980年(昭和55年)、フリーに転身。『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』や文芸作品の映画化にとりくむ。しかし、1983年(昭和58年)に肺気胸で入院。肺結核に感染しており、片肺の機能はほとんど失われ、酸素ボンベを携えての生活を余儀なくされたが、それ以後も入退院を繰り返しながら監督業を続けた。1988年(昭和63年)、舞台「浅草紅団」を初演出。1994年(平成6年)、『棒の哀しみ』を監督。撮影時も酸素ボンベに車いす姿で現場入りし、わずか17日間で撮り終えるというハードスケジュールの中で、6年ぶりの新作を完成させた。この作品で第49回毎日映画コンクール日本映画優秀賞と監督賞、第37回ブルーリボン賞作品賞と監督賞、報知映画賞監督賞を受賞。1995年(平成7年)2月8日、第37回ブルーリボン賞授賞式の5日前に急性肺炎で東京都世田谷区船橋の有隣病院に入院。2月24日、死去。享年67。


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先日、初の評伝にして700ページを超える大作が出版された映画監督の神代辰巳。ロマンポルノやピンク映画出身の先駆的存在であり、人間の愛欲の哀しさを追求した作品を量産した。また、その無頼スタイルはATG制作に出ていた役者たちに愛され、桃井かおり、萩原健一からは「クマさん」と呼ばれ慕われていた。没後25年にして再び脚光を浴びている神代辰巳の墓は、神奈川県愛甲郡の相模霊園メモリアルパークにある。洋形の墓には「神代家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「神光院釋龍照」。

by oku-taka | 2020-07-05 21:10 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)