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中川信夫(1905~1984)

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中川 信夫(なかがわ のぶお)

映画監督
1905年(明治38年)~1984年(昭和59年)

1905年(明治38年)、京都府洛西嵯峨二尊院門前町(現在の京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町)に生まれる。橘尋常小学校卒業後、兵庫県の旧制育英商業学校(現在の育英高等学校)に入学。1924年(大正13年)に卒業。文学者になることを目指し、同人誌『幻魚』に小説を執筆するが、文学者になるには大学を出ていなければ駄目だと思い、その道をあきらめて映画の道に進む。キネマ旬報読者寄書欄の素人映画評論家を経てマキノ・プロダクションに入社し、助監督となる。この時代には山上伊太郎、伊丹万作、小津安二郎らに強い影響を受けた。1930年(昭和5年)8月、世界大恐慌による不景気によりマキノ撮影所が給料遅配になり争議に突入すると、従業員側の記録係をつとめた。同年12月にマキノが製作を一時中断した後は、無職で1年間過ごし、その時間をシナリオ執筆に費やした他、1931年(昭和6年)には神戸市三宮の生田筋に喫茶店「カラス」を開業している。1932年(昭和7年)、市川右太衛門が主宰する市川右太衛門プロダクション(右太プロ)に助監督の身分で移籍。1934年(昭和9年)、『弓矢八幡剣』で監督に昇進した。この作品は昇進試験として監督したもので、実質的なデビュー作は1935年(昭和10年)の『東海の顔役』となる。1936年(昭和11年)に右太プロが松竹に吸収合併された後は、マキノ・トーキーを経て、1938年(昭和13年)に東宝へ移籍。時代劇やエノケン(榎本健一)主演作を主に監督したが、戦時期の映画製作本数の減少で、1941年(昭和16年)に東宝を契約解除となる。同年、松竹京都撮影所製作部長の渾大坊五郎に招かれて同撮影所に移籍するが、間もなく松竹京都撮影所は製作体制を縮小して松竹大船撮影所に合併。生活のために助監督をする覚悟で上京して大船に赴くが、不調に終わる。1942年(昭和17年)、中国に渡り、中華電影で日中戦争の記録映画『浙漢鉄道建設』を監督。2年間撮影が続けられるが、映画は完成することなく終戦を迎えて『浙漢鉄道建設』のフィルムは焼却された。1946年(昭和21年)、上海から帰国。池田富保が設立した大同映画に入社するが、仕事はほとんどなく生活に困窮する。一方、詩の同人誌に参加し、11月に神港夕刊新聞社が主催した「新憲法公布記念文芸」の詩編部門で応募作『地ならし』が一等入選となり、知事賞を得る。1947年(昭和22年)2月には、県が日本国憲法公布を記念して募集した「兵庫県民歌」で応募作品が佳作に入賞する。この年、中華電影時代に親交を持った筈見恒夫と京都で偶然再会。当時新東宝のプロデューサーだった筈見の勧めで新東宝に移籍し、1948年(昭和23年)の『馬車物語』で映画監督に復帰した。同社が大蔵貢のワンマン体制に移行した後も同社で大蔵プロデュースの作品を量産し、1957年(昭和32年)の『怪談かさねが渕』以降は同社の夏興業の定番である怪談ものを一手に引き受けた。1961年(昭和36年)に新東宝が倒産した後は、東映京都撮影所、国際放映と専属契約した後、1966年(昭和41年)にフリーとなる。東映東京撮影所製作の『妖艶毒婦伝 お勝兇状旅』(1969年)を最後に映画から離れ、テレビドラマの監督を経て、1979年(昭和54年)に第一線から離れる。この間、神奈川県芸術祭演劇脚本コンクールに自作脚本6本を応募。1982年(昭和57年)までにいずれも入賞している。同年、磯田事務所とATGの提携作品『怪異談 生きてゐる小平次』で13年ぶりに映画監督に復帰。また、山路ふみ子文化財団特別賞を受賞した。1984年(昭和59年)、イタリアのペサロ映画祭で代表作『東海道四谷怪談』などが上映されることになり招待状を受け取るが、同年1月10日に風邪から脊髄炎、更に3月には脳梗塞を発症し意識不明に陥ったため、映画祭への出席はかなわなかった。6月17日、心不全のため死去。享年79。


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「怪談映画の巨匠」と称された映画監督・中川信夫。新東宝の社長だった大蔵貢の下、『憲兵と幽霊』『東海道四谷怪談』『地獄』といった怪談映画を相次いで制作し、いずれも映画ファンに愛される傑作となった。しかし、中川が監督を務めた映画作品全97作品のうち、怪談物は8作品しかない。むしろ、その作風は実に多種多彩で、『旗本退屈男・唐人街の鬼』『エノケンの森の石松』『虞美人草』『高原の駅よさようなら』『思春の泉』と、時代劇、文芸物、青春物、なんでもござれであった。酒と豆腐を愛し、一貫して大衆向けの娯楽映画を作り続けた中川信夫の墓は、神奈川県愛甲郡の相模霊園メモリアルパークにある。洋形の墓には「中川家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「竟至院映道日信居士」。

by oku-taka | 2020-07-05 20:06 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)