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野村俊夫(1904~1966)

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野村 俊夫(のむら としお)

作詞家
1904年(明治37年)~1966年(昭和41年)

1904年(明治37年)、福島県福島市大町に生まれる。本名は、鈴木 喜八。幼少期はガキ大将として育ち、近所に住んでいた作曲家の古関裕而は子供の頃ともに遊んだ仲だった。生家は魚屋を営んでいたが、父が商品相場に手を出して失敗した為、 渡利を経て仲間町へと転居する。その後、福島市立第一小学校を卒業。福島商業学校へと進学したが、家庭状況により中退。福島県の富豪・角田林兵衛に奉公へと出る。15歳の頃から新聞雑誌に俳句・詩・童謡を投稿するようになり、この頃から「野村俊夫」の名を使うようになる。また、かねてより学問を志しており、奉公先でも布団の中で密に勉強していたが、そのことがバレて家に返されてしまう。その後、3年ほど家業を手伝いながら勉強を続け、1924年(大正13年)に福島民友新聞社へ入社。編集部に配属されたが徐々に頭角を現し、報道部の記者となる。方々を取材で走り回る一方、文芸欄を任されるようになる。また、詩作にも取り組み、詩誌『北方詩人』に投稿していた。1931年(昭和6年)、福島民友新聞社を退社。既にコロムビア専属の作曲家として東京で活動していた古関裕而のすすめで上京する。同年、古関裕而と組んだ初のレコード『福島行進曲』を発表。この頃からフリーの作詞家として本格的に活動を開始する。しかし、曲はヒットせず、時代も昭和恐慌真っ只中だったので、フリーの作詞家として活動する傍ら、事務員、印刷屋の手伝い、おでん屋「太平楽」を営むなどして生計を立てた。1938年(昭和13年)、小野巡が歌った『音信はないか』(作曲:能代八郎)と、東海林太郎が歌った『忠治子守唄』(作曲:服部逸郎)が初のヒット。1939年(昭和14年)、『ほんとにほんとに御苦労ね』(作曲:倉若晴生、歌:山中みゆき)、『上海夜曲』(作曲:仁木他喜雄、歌:藤山一郎)が立て続けにヒット。特に『上海夜曲』は、藤山一郎のコロムビア復帰第1作目ということもあってヒットし、野村もコロムビア専属の作詞家となる。1940年(昭和15年)、映画主題歌『暁に祈る』が大ヒット。作曲した古関裕而、歌った伊藤久男とともに「福島3羽ガラス」と呼ばれた。1941年(昭和16年)、真珠湾攻撃のニュース歌謡を任され、『宣戦布告の歌』を発表。以降、『索敵行』(作曲:万城目正、歌:伊藤久男、霧島昇、楠木繁夫)、『大空に祈る』(作曲:万城目正、歌:松原操、三原純子、菊池章子)、『あゝ紅の血は燃ゆる』(作曲:明本京静、歌:酒井弘、安西愛子)といった戦時歌謡を発表。従軍記者としても活動したころから、終戦後に戦争加担者としての責任を追及された。1948年(昭和23年)、『湯の町エレジー』(作曲:古賀政男、歌:近江俊郎)が戦後初の大ヒット。その後は古賀政男とコンビを組み、『シベリア・エレジー』(歌:伊藤久男)、『港の恋唄』(歌:鶴田六郎)とヒット作を発表。しかし、1950年(昭和25年)にスランプに陥り、曲が全く書けなくなってしまう。そうした中、勧められるがまま日本音楽著作家組合の役員となり、出所を明示すれば無料でレコードを興行や放送に使用できることを規定した著作権法30条8号の改正に尽力した。そうした功績が認められ、1951年(昭和26年)には日本音楽著作権協会の常務理事に就任。音楽家の権利拡大に貢献した。作曲家としてもスランプを脱出し、『元気でねさようなら』(作曲:三界稔、歌:青木光一)、『見ないで頂戴お月さま』(作曲:古賀政男、歌:神楽坂はん子)、『どうせ拾った恋だもの』(作曲:船村徹、歌:コロムビア・ローズ)、『東京だョおっ母さん』(作曲:船村徹、歌:島倉千代子)といったヒット曲を世に送り出した。1964年(昭和39年)、日本音楽著作権協会が5年にわたり著作権使用料から約1億円を簿外処理し、その裏金を使って当時の役員への裏給与や遊行費、文部官僚接待費などに充てていたことが発覚。この事件は音楽界の「黒い霧事件」と言われ、1965年(昭和40年)に常務理事であった野村は責任を取って辞職した。1966年(昭和41年)9月30日、十二指腸潰瘍の手術を受けるが、手術後に腸閉塞を発症。10月27日、死去。享年62。


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NHK連続テレビ小説『エール』で主役の古山裕一の幼馴染として登場する、中村蒼演じる村野鉄男。このモデルが、コロムビアレコードの黄金期を築いた作詞家の一人、野村俊夫である。彼の作品は「哀愁」をかき立てられる作品が多く、戦前に書いた戦時歌謡もよく聴けば、戦意高揚よりもそういった哀愁さを感じるものが圧倒している。それは、ひとえに野村が作詞家としてではなく詩人を目指していたことの表れである。哀愁ある詞で別れと思慕という人間の機微を描き続けた野村俊夫の墓は、東京都大田区の曹禅寺にある。墓には作詞家の藤田まさとによる字で「鈴木家之墓」とあり、右側面に墓誌、左側面に『湯の町エレジー』の歌詞が刻まれている。右側には野村俊夫の記念碑が建てられている。

by oku-taka | 2020-07-04 15:13 | 音楽家 | Comments(0)