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三船敏郎(1920~1997)

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三船 敏郎(みふね としろう)

俳優
1920年(大正9年)~1997年(平成9年)

1920年(大正9年)、中国山東省の青島に生まれる。青島と営口で「三船写真館」を開いていた父親は、大連でも1929年(昭和4年)に開業した当時最先端のショッピングモール「連鎖商店街」の2階で「スター写真館」を開業し、写真館経営のかたわら、従軍カメラマンもしていた。1934年(昭和9年)、大連中学校に入学。若い頃からワルだったといわれるが、父が病気で倒れたため写真屋を手伝い、1938年(昭和13年)に卒業。1940年(昭和15年)、徴兵・甲種合格で兵役に就く。写真の経験と知識があるということから満洲国・公主嶺の陸軍第七航空隊に配属されるが、そこでのしごきが凄まじく、一発二発のビンタでは倒れないのでよけいに殴られ、声が大きいだけでも殴られ、顔が変形するほどだった。そこで写真業の手伝いをしていた腕を見込まれて、航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員となった。1940年(昭和15年)、先輩兵である大山年治(東宝撮影所撮影部所属)から、「俺はこの3月に満期除隊となるが、来年はお前の番だ、満期になったら砧の撮影所へ来い。撮影助手に使ってやる」と誘われた。しかし、戦況が逼迫し、満期除隊は無くなってしまったため、以後敗戦まで兵役に就いた。上官に対して反抗的な態度を取っていたので、「古参上等兵」のまま過ごした。1941年(昭和16年)、滋賀県八日市の八日市飛行場「中部九八部隊・第八航空教育隊」に写真工手として配属。1945年(昭和20年)の戦争末期には熊本の隈之庄の特攻隊基地に配属され、出撃前の隊員の遺影を撮る仕事に従事した。ここで終戦を迎え、父の生家である秋田県由利郡鳥海町小川の三船家に世話になり、毛布1枚と米をもらって上京する。三船は大山との約束を頼りに復員服のまま大山を訪ね、撮影助手採用を願い出た。ところが、何かの手違いで三船の志願書が俳優志願の申込書の中に混じり、三船はニューフェイスの面接を受けることになった。審査員が「笑ってみてください」と言うと、三船は「面白くもないのに笑えません」と答え、ふてぶてしい態度を取った。結果「性格に穏便さを欠くという理由で不合格」という結論が出たが、会場に居合わせた女優の高峰秀子は、三船の存在感に胸騒ぎを感じており、彼女は撮影中で審査に参加できなかった黒澤明に三船のことを知らせた。駆けつけた黒澤もまた三船を見て、ただならぬ気配を感じた。審査委員長だった山本嘉次郎監督も同じで、黒澤は「俳優の素質を見極めるのに専門家と門外漢が同じ一票ではおかしい」と、監督など映画製作の専門家と労働組合代表の半数ずつで構成されている当時の審査委員会に抗議。結局山本が「彼を採用して駄目だったら俺が責任をとる」と発言し、三船は及第となる。太々しさの中に見える大器の可能性も買われて形式的には補欠採用となり、東宝第1期ニューフェイスに合格となった。同期には、久我美子、堀雄二、伊豆肇、若山セツ子、堺左千夫らがいる。1947年(昭和22年)、「撮影部の空きを待っている」という三船を映画監督の谷口千吉が説得し、映画『銀嶺の果て』で役者としてデビューさせる。谷口は、野生的な男を探していて、同じ電車の乗り合わせた三船をみて誘うことを決めたが、三船は「俳優にはならない、男のくせに面で飯を食うのは好きではない」と断った。あくまで撮影部を希望していたが、谷口は、三船の着ていたものが航空隊の制服だったこともあり、出演の交換条件に背広を作ってプレゼントすることなど提示。三船は雪山で遭難する3人のうちの1人を演じて話題となり、脚本を担当した黒澤は、この映画で自分が感じていた三船のたぐいまれな才能を確信する。1948年(昭和23年)、黒澤明監督『醉いどれ天使』に、主役の一人として破滅的な生き方をするヤクザ役で出演。この作品で豪快な演技力をみせた三船は、一躍スターの仲間入りを果たす。この後、東宝争議が激化したため、撮影部転属を諦め、黒澤・志村と共に『酔いどれ天使』の舞台実演で全国を巡業する。以来、黒澤とコンビを組み、 1949年(昭和24年)に『静かなる決闘』『野良犬』、1950年(昭和25年)には『醜聞(スキャンダル)』『羅生門』で主演を務める。『羅生門』は1951年(昭和26年)にヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞し、「世界のミフネ」の起点となった。その後も、『白痴』『七人の侍』『生きものの記録』『蜘蛛巣城』『どん底』『隠し砦の三悪人』『悪い奴ほどよく眠る』と主演し、黒澤作品に欠かせない俳優として活躍。1961年(昭和36年)には、『用心棒』でヴェネチア映画祭主演男優賞を受賞した。一方、黒澤明とともにその名が世界中に知れ渡った三船は、世界中からオファーが舞い込むようになる。海外からの出演依頼はものすごい数になったと言われており、共演を熱望するスターも多かったが、三船は日本映画の出演を優先し、ほとんどの依頼を断っていたが、1961年(昭和36年)に初の海外主演作品となるメキシコ人監督イスマエル・ロドリゲスによる『価値ある男』にメキシコ人役で主演。この映画は主人公のメキシコ人を日本人が演じるという奇抜なアイデアであるにもかかわらず、『用心棒』と併せてブルーリボン賞で主演男優賞を受賞。このほか、日本映画記者会賞最優秀男優賞、1962年(昭和37年)のゴールデングローブ賞に外国語映画部門でシルバーグローブ、サンフランシスコ国際映画祭でベスト・フィルム部門でゴールデン・ゲート・アワードを受賞するなどの結果を出す。また、この時の国際的活躍によりブルーリボン賞特別賞を受賞した。1962年(昭和37年)、所属する東宝から「君はプロダクションを作り、仕事を回すから自分のところで映画を作るように」と告げられ、三船プロダクションを設立。プロダクション設立にあたり、東宝の重鎮・森岩雄、藤本真澄と川喜多長政らを取締役に、運営には田中友幸の尽力を得た。翌年には兵庫県宝塚市にある宝塚映画(現在の宝塚映像)にて、映画『五十万人の遺産』を自らの主演で初監督した。『五十万人の遺産』は1963年(昭和38年)の日本映画の興行成績で7位となるが、この作品を最後に三船は映画監督をすることはなかった。一方、黒澤とのコンビは続き、『椿三十郎』『天国と地獄』と主演。1965年(昭和40年)の『赤ひげ』で2度目のヴェネチア映画祭主演男優賞を受賞した。この作品を最後に黒澤明が監督した映画には出ていない。同年、黒澤プロ製作の『姿三四郎』に出演。デビュー作『銀嶺の果て』を始めとする黒澤と三船の両名がクレジットされた最後の映画となる。また、『五十万人の遺産』で監督業は無理だと思った三船は、自身のプロダクションに岡本喜八監督を招き、『侍』と『血と砂』を製作。東宝の支援もあり、興行成績も好調となった。1966年(昭和41年)、東京都世田谷区成城と調布市入間町にまたがる敷地に、時代劇も撮影できるオープンセットのある撮影所を建設。組織も拡大し、映画製作、企画の社員を雇い、撮影スタッフも増強して自主製作を始めるなど、三船プロは五大映画会社並みの規模のプロダクションとなる。同年、3部門でアカデミー賞を受賞したカーレース映画『グラン・プリ』で初めてハリウッド映画に出演。この際のステージ建設で示した日本映画人としての情熱を評価されてブルーリボン賞特別賞を受賞。その後も、『太平洋の地獄』や『レッド・サン』、『太陽にかける橋 ペイパー・タイガー』などで海外のスターと共演する。1967年(昭和42年)、『桃太郎侍(日本テレビ系、主演:四代目尾上菊之助)』でテレビドラマの制作も開始。1968年(昭和43年)に三船プロダクションと石原プロモーションの合同制作の映画『黒部の太陽』に主演。1969年(昭和44年)には、監督に稲垣浩を迎えて、中村錦之助、石原裕次郎らとともに『風林火山』を製作。作った。この2作品はそれぞれ、その年の日本映画の興行成績1位となる。1970年代に映画産業が斜陽化してから映画製作から撤退し、テレビで時代劇ドラマを制作。NHK大河ドラマに比肩する規模の大作『大忠臣蔵(1971年、NET系)』、西部劇を時代劇風に翻案して黒澤作品での浪人「三十郎」を想起させる主役を演じた『荒野の素浪人(1972年、NET系)』、萬屋錦之介主演『破れ傘刀舟悪人狩り(1974年、NET系)』など制作し、時代劇の歴史に一石を投じた。この頃、妻で東宝第一期ニューフェイスで同期だった吉峰幸子との夫婦関係が冷め切ったものとなり、三船の酒乱に悩まされた幸子によって三船は家から追い出される。しかし、本心は三船との関係修復を望んでおり、幸子は自分から三船を追い出したが、三船が離婚しようとするとこれを拒否。三船は離婚訴訟を起こすに及んだが、離婚届に判を押さなかった。この離婚裁判の間に三船は女優・喜多川美佳と交際し、1974年(昭和49年)に来日した米フォード大統領を迎賓館に招いた歓迎晩餐会では喜多川美佳を妻として同伴して出席している。1979年(昭和54年)、東宝助監督から三船プロへ移籍し、役員となっていた田中寿一が、竜雷太、阿知波信介らとともに大量離脱して半ば強引に三船プロから独立し、田中プロモーションを設立。この内紛が原因で三船プロは大打撃を受け、この分裂劇は法廷へともつれ込んだが、田中からの謝罪を三船が受け入れることで和解した。分裂で大打撃を受けた三船は軌道修正を図るべく、1981年(昭和56年)に三船芸術学院を設立。役者や制作スタッフの育成に力を注ぐも、内紛騒動で出来た穴を埋めることはできず、1984年(昭和59年)には撮影所が閉鎖に追い込まれて敷地の多くを売却するなどの事業縮小を余儀なくされた。1986年(昭和61年)、紫綬褒章を受章。1987年(昭和62年)、山田洋次監督『男はつらいよ 知床慕情』で頑固者の老獣医師を演じ、ブルーリボン賞助演男優賞を受賞。その後も、市川崑監督の『竹取物語』(1987年)で竹の造翁、熊井啓監督の『千利休 本覺坊遺文』(1989年)で千利休を演じるなど、渋い演技を見せた。 1989年(平成元年)、フランス政府から芸術文化勲章を受勲。1990年代に入ると体調がすぐれないことが多くなり、晩年は軽度の認知症を発症していたといわれ、週刊誌やワイドショー等の話題となっていた。1992年(平成4年)には心筋梗塞で倒れ、これがきっかけで喜多川美佳から関係を解消される。三船は看病を希望した幸子のもとに戻り、それ以後、幸子は時節体調のすぐれない三船を支え、円満な夫婦関係となった。1993年(平成5年)、勲三等瑞宝章を受章。1995年(平成7年)、京マチ子、山田五十鈴、市川右太衛門、俊藤浩滋と日本アカデミー賞会長特別賞を受賞。同年に公開された熊井監督の『深い河』の塚田役が最後の映画出演となった。この年、幸子が膵臓癌で死去。その後、体調が急速に悪化し、担当医の勧めで高齢者医療の専門病院に入院。1997年(平成9年)夏頃から床に臥せりがちになり、食事も流動食しか受け付けなくなる。11月には内臓の機能が極度に低下し、流動食の摂取も難しくなったことから点滴による栄養補給に変更。最期の1週間は目も口も閉ざしたままで、反応はほぼなくなっていたが、その頃に志村喬夫人の島崎政子が三船を見舞い、「三船ちゃん、しっかりしなさいよ!」と耳元で励まして頬を叩くと、三船の目から一筋の涙が流れたという。12月24日午後9時28分、全機能不全のため東京都三鷹市の杏林大学医学部付属病院で死去。享年77歳。その死は、国内のみならず、フランスやイタリアの国営放送のニュース番組でもトップニュースで報じた。外国報道機関がトップニュースで日本の俳優の死去を報じたのは過去に例がない出来事だった。アメリカのタイム誌でも三船の死を大きく取り上げている。生前の意向で葬儀は執り行われず、1ヶ月後の1998年(平成10年)1月24日に三船プロ・黒澤プロ・東宝の合同葬という形で青山葬儀所でお別れの会が営まれた。お別れの会には、谷口千吉、岡本喜八、熊井啓、堀川弘通、千秋実、香川京子、八千草薫、久我美子、三橋達也、中野良子、竜雷太、松岡功、岡田茂ら約1800人が参列したほか、スティーブン・スピルバーグ、アラン・ドロン、チャールトン・ヘストン、マーロン・ブランドら世界各国の映画人から弔電が寄せられた。没後の2016年(平成28年)、ハリウッド殿堂入りを果たし、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに名前が刻まれた。日本関係では早川雪洲、マコ岩松、ゴジラに次いで4番目の殿堂入りとなった。


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日本が誇る世界的大スター・三船敏郎。彫りの深い顔立ち、鋭い眼光、野太い声圧倒的な存在感、バイタリティーあふれる演技…そのすべてが魅力的な役者であり、「世界のミフネ」の呼び名を欲しいままにした。日本のみならず世界中の映画関係者に与えた影響は計り知れず、名だたるハリウッドスターから弔文が送られる役者は、後にも先にも三船敏郎ただ一人だけだと思う。エネルギッシュな日本男児を演じ続けた国際派スターの墓は、神奈川県川崎市の春秋苑にある。墓には「三舩家之墓」とあり、右側に墓誌が建つ。

by oku-taka | 2020-06-21 18:28 | 俳優・女優 | Comments(0)