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島田正吾(1905~2004)

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島田 正吾(しまだ しょうご)

俳優
1905年(明治38年)~2004年(平成16年)

1905年(明治38年)、神奈川県横浜市保土ケ谷に生まれる。本名は、服部 喜久太郎(はっとり きくたろう)。まもなく父の仕事の都合で関西に移り、1923年(大正12年)に明星商業学校を中退。上京し、澤田正二郎が率いる新国劇に入団。入座2日目に『井伊大老の死』の駕籠かき役で初舞台を踏む。1924年(大正13年)に青年部、1927年(昭和2年)には幹部に進み、1929年(昭和4年)に沢田が急逝すると若干22歳ながら辰巳柳太郎と共に後継者に抜擢される。以来、“辰巳の剛”と“島田の柔”、“天才肌の辰巳”“学究肌の島田”と比較され、異なる個性を持つ終生のライバルとなった辰巳とともに二枚看板として活躍。入念な役作りで神経の行き届いた内省的な演技と、重厚で品格のある舞台姿が持ち味で、『人生劇場』『修善寺物語』『殺陣師段平』『沓掛時次郎』などの作品を次々と上演。中でも長谷川伸作品の股旅物、『関の弥太っぺ』の弥太郎、『瞼の母』の番場忠太郎、『一本刀土俵入』の駒形茂兵衛などを生涯の当たり役とし、劇団の第2次黄金時代を築いた。戦後は北条秀司『霧の音』『王将』、竹山道雄『ビルマの竪琴』などの文芸作品や、『松川事件』といった社会的な作品も手がけ、それまでの義理人情の芝居と迫力の殺陣を売り物とした男性路線の新国劇に新生面を開く。1951年(昭和26年)、山田五十鈴を相手役に『夏祭三度笠』で映画に初出演。以後、劇団の十八番作品を映画化した作品にも出演。1954年(昭和29年)、劇団が倒産。その後再建し、1958年(昭和33年)に戦国時代の武士・山本勘助を演じた主演作『風林火山』は、10年以上にもわたり公演を続けるほどの代表作となった。1969年(昭和44年)に紫綬褒章、1976年(昭和51年)には勲四等旭日小綬章を受章。華々しい活躍の一方、劇団は苦しい経営が続き、1987年(昭和62年)の創立70周年を機に解散した。その後は脚本・演出すべてを手がける一人芝居をライフワークとし、1991年(平成3年)に新国劇の十八番であった『白野弁十郎』(シラノ・ド・ベルジュラックの翻案)を公演。翌年には同作でパリ公演を行い、フランス政府から芸術文化勲章シュバリエ章を贈られた。以後、毎年5月に新橋演舞場で『瞼の母』『王将』などの十八番作品を演じ、12年間12作品を上演した。1992年(平成4年)、連続テレビ小説『ひらり』に主人公の祖父役で出演。ドラマ自体の評判も良く、島田の知名度は当時の若年層にまで拡大した。1994年(平成6年)、NHK『十時半睡事件帖』で主演。放送開始時の島田は88歳9か月であり、日本のテレビドラマ主演俳優の最高齢記録も樹立して話題になった。1995年(平成7年)には歌舞伎に初挑戦し、『建礼門院』の後白河法皇を演じた。晩年も現役最高齢俳優として意欲的に活動していたが、2002年(平成14年)8月15日に脳梗塞を発症。舞台復帰への念は凄まじく「99歳まで新国劇の芝居、100歳で新作を」と周りに言い、様々な演劇のビデオを欠かさず見続け、リハビリに励んでいた。11月26日午前4時45分、脳梗塞のため死去。享年98。島田の書斎の机の上には真山青果作『富岡先生』の台本が置かれていて、台本の側には99歳になったら演じると決めていた『ひとり芝居』のために推敲中の原稿もあったという。


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辰巳柳太郎と共に新国劇の二枚看板として活躍した名優・島田正吾。低い声と渋い独特なセリフまわしで観客を魅了し、特に『一本刀土俵入り』や『沓掛時次郎』といった粋な股旅物が実に上手い役者であった。特に『一本刀土俵入り』の名台詞「せめて見てもらう駒形の…しがねえ姿の、横綱の土俵入りでござんす」の場面は、思わず掛け声をかけたくなるほど痺れる名演であった。晩年は1年に1作づつ上演する一人芝居に心血を注ぎ、その姿は弟子の緒形拳からも「高い目標」だと評価された。あくなき芝居への情熱を持ち続けた島田正吾の墓は、神奈川県川崎市の春秋苑にある。墓域には五基の墓があり、島田の墓は真ん中左の墓に納骨されている。墓には戒名が刻まれ、右側面に墓誌が刻む。戒名は「聚光院正受禅悟居士」。

by oku-taka | 2020-06-21 10:59 | 俳優・女優 | Comments(0)