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深作欣二(1930~2003)

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深作 欣二 (ふかさく きんじ)

映画監督
1930年(昭和5年)~2003年(平成15年)

1930年(昭和5年)、茨城県東茨城郡緑岡村に生まれる。茨城大学教育学部附属中学校の在学中、勤労動員先の工場が攻撃を受け、同僚の死体を瓦礫の山から拾い集めた。戦後、軍国主義から民主主義へ一変した世の中の価値観に戸惑い、闇市で出会った外国映画に魅了され映画監督を目指す。その後、水戸第一高等学校、日本大学芸術学部映画学科を経て、1953年(昭和28年)に東映へ入社。翌年には東京撮影所助監督勤務となり、現代劇の製作にあたる。1961年(昭和36年)、千葉真一の初主演作品となる『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で監督デビュー。千葉とはこの後にも17作品でコンビを組み、ヒットを連発していく。千葉を主演に据え置き演出した映画『風来坊探偵シリーズ』『ファンキーハットの快男児シリーズ』、1966年(昭和41年)の映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』は、テレビドラマ『キイハンター』 (1968年 - 1973年) の土台となった作品で、『キイハンター』の企画にも関わり、第1・2・157・158・178話を演出した。一方、『白昼の無頼漢』を皮きりに、『誇り高き挑戦』『ギャング対Gメン』『狼と豚と人間』とギャング映画を次々に制作。1964年(昭和39年)には谷口千吉監督の『ジャコ萬と鉄』を高倉健の主演で再映画化してヒットさせた。しかし、東映からは「理屈が多い、淀んでる、反米とは何ごとだ」と評価され、創りたい映画を東映になかなか認めてもらえず、東映に籍を置きながらにんじんプロダクションの國光影業の共作映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』を監督していた。1970年(昭和45年)、日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』の日本側監督を黒澤明が降板したため、後任となった舛田利雄から懇願され共同監督を引き受ける。 1972年(昭和47年)、東宝で製作した『軍旗はためく下に』が、その年のベストテンで2位に輝く。良心的な反戦映画と評価されたが、一方で『現代やくざ 人斬り与太』と『人斬り与太 狂犬三兄弟』を東映で製作。主演の菅原文太が俊藤浩滋プロデューサーに「『現代やくざ 人斬り与太』『人斬り与太 狂犬三兄弟』を見て下さい」と頼み、この二作を観た俊藤が深作に「『仁義なき戦い』の監督をやらないか」と打診したことで、1973年(昭和48年)に『仁義なき戦い』が製作された。同作は広島の暴力団抗争事件を題材に、手持ちカメラによる荒々しい映像で描いて大ヒット。シリーズ化されて東映のヤクザ映画を任俠路線から実録路線へ転換させるきっかけとなった。その後、『柳生一族の陰謀』『復活の日』『魔界転生』と時代劇、SFと幅広い題材をスケール感のある映像と演出で描いてヒットを連発。1982年(昭和57年)には、つかこうへい原作・脚本の『蒲田行進曲』を映画化し、キネマ旬報監督賞を受賞した。テレビドラマでは、深作、神代辰巳、恩地日出夫、工藤栄一らが演出を担当してヒットした萩原健一主演『傷だらけの天使』などを監督。また、『必殺』シリーズ、『影の軍団II』などを演出している。映画では『火宅の人』『華の乱』と文芸物にも挑戦。1992年(平成4年)には、ハリウッド映画並みのアクション映画『いつかギラギラする日』を監督したが、大量の車、火薬、銃弾を消費したため、当初予算の3億円が11億円にまで膨張してしまった。1996年(平成8年)、日本映画監督協会理事長に就任。1997年(平成9年)、紫綬褒章を受章。2000年(平成12年)、中学生が生き残りをかけて殺し合う『バトル・ロワイアル』を制作。過激な暴力描写が社会的な論議を巻き起こした。2002年(平成14年)、カプコンのプレイステーション2用ゲームソフト『クロックタワー3』のイベントCGムービーの監督を務める。2002年(平成14年)9月25日、前立腺癌の脊椎転移を公表するとともに、『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』の製作を発表。12月16日からクランクインするが、21日に癌の骨転移の痛みから、放射線治療のため予定より2日早く入院。23日に定期の放射線治療、29日に体力の低下による風邪から肺炎を併発。31日に自力呼吸が困難になり、人工呼吸器を装着し、一時危篤状態になった。2003年(平成15年)1月初頭、小康状態に回復。5日に同作のプロデューサーで息子の深作健太が監督を代行することとなった。7日、東映の社長である岡田茂と健太が会見。岡田は深作を2月初頭に復帰させたいと説明するが、11日の夕方から容態が悪化。妻の中原早苗と健太、菅原文太、健太から連絡を貰った渡瀬恒彦や藤原竜也らが臨終に立ち会い、12日午前1時、死去。享年72。没後、勲四等旭日小綬章を追贈された。


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徹底して抵抗と反逆を描き、臨場感あふれる演出で衝撃的な作品を生み出し続けた深作欣二。『仁義なき戦い』をはじめとするヤクザ物から、『柳生一族の陰謀』『魔界転生』などの時代劇、『火宅の人』のような文芸、『宇宙からのメッセージ』『復活の日』などのSF、『忠臣蔵外伝 四谷怪談』のようなホラー映画と、その作風は実に幅広い。しかし、彼の根底にあったのは「荒唐無稽や嘘の物語をいかにリアルに仕上げるか」という思いであった。そうした思いに共鳴した役者は実に多く、千葉真一、菅原文太、渡瀬恒彦らは生涯にわたって深作を慕った。反骨心を武器に映画づくりを邁進してきた深作欣二の墓は、神奈川県川崎市の春秋苑にある。洋形の墓には「深作家」とあり、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2020-06-20 19:28 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)