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岡本喜八(1924~2005)

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岡本 喜八(おかもと きはち)

映画監督
1924年(大正13年)~2005年(平成17年)

1924年(大正13年)、鳥取県米子市四日市町に生まれる。本名は、岡本 喜八郎(おかもと きはちろう)。米子商蚕学校(現在の米子南高校)卒業後に上京し、明治大学専門部商科を経て、1943年(昭和17年)に東宝へ入社して助監督となる。しかし、戦局の悪化に伴い1945年(昭和20年)に招集され、松戸の陸軍工兵学校に入隊。愛知県豊橋市にあった第一陸軍予備士官学校で終戦を迎えた。この豊橋滞在時に空襲で多くの戦友たちの死を目の当たりにし、戦争や陸海軍部に対する大きな憤りを抱く。復員後に東宝へ復帰し、マキノ雅弘、谷口千吉、成瀬巳喜男、本多猪四郎らに師事して修行を積む。1957年(昭和32年)、東宝が石原慎太郎に自作『若い獣』を監督させると発表したことに助監督たちが反発。シナリオ選考で一人監督に昇進させることが決まり、岡本が『独立愚連隊』『ああ爆弾』のシナリオで認められて昇進した。1958年(昭和33年)、『結婚のすべて』で監督デビュー。軽妙な青春喜劇に仕上げて、NHK最優秀新人監督賞を受賞した。第三作目の活劇『暗黒街の顔役』で早くも1959年(昭和34年)の正月作品を任され、『暗黒街の対決』(1960)、『暗黒街の弾痕』(1961)と3年連続で正月第一作を担当した。また、日中戦争最中の中国大陸に西部劇や推理劇の要素を取り入れた5作目『独立愚連隊』が、戦争映画の痛烈なパロディとして高く評価され、一躍若手監督の有望格として注目を浴びる。以降、『独立愚連隊西へ』(1960年)、『江分利満氏の優雅な生活』(1963年)、『ああ爆弾』(1964年)など、幅広い分野の作品を監督。スター俳優からの信望も厚く、三船プロ作品『侍』『血と砂』(ともに1965)、『赤毛』(1969)、三船敏郎と勝新太郎が競演した『座頭市と用心棒』(1970)などで娯楽活劇監督としての手腕を発揮した。また東宝の創立35周年記念大作『日本のいちばん長い日』(1967)といった社会派的な良心作で芸術祭文部大臣賞を受賞。一方で、実験的な低予算芸術映画にも積極的に進出し、1968年(昭和43年)にはATG(日本アート・シアター・ギルド)と提携して『肉弾』を自主製作し、芸術祭文部大臣賞、毎日映画コンクール監督賞、シナリオ作家協会賞などを相次いで受賞した。また、キネマ旬報ベストテン2位ながら、三十数名の全選考委員満票であった(読者投票女性部門のみ選外)。1970年代以降は作品を撮れない時期も長く、不遇の鬼才という側面もあったが、同時期に東宝が一挙に製作を縮小した際(自社製作を独立プロ並みの年間数本に減らすという事実上の製作中止に等しいものであった)にも最後まで契約が続いた監督の一人でもあり、日本で最もギャラの高い監督と言われた時期もあった。しかし、1975年(昭和50年)に東宝を退社して喜八プロダクションを設立。プロデューサーであった妻・みね子と二人三脚で映画づくりに没頭。ATGと提携した自主作品『吶喊(とっかん)』(1975)を皮きりに、『ダイナマイトどんどん』(1978年)、『近頃なぜかチャールストン』(1981年)、『ジャズ大名』(1986年)と、各社からのオファーに応じて時代劇、やくざものからSFまで多彩なジャンルを監督した。1989年(平成元年)、紫綬褒章を受章。 1991年(平成3年)、『大誘拐 RAINBOW KIDS』で日本アカデミー賞最優秀監督賞と最優秀脚本賞を受賞。1995年(平成7年)、勲四等旭日小綬章を受章。同年、日本の侍が渡米して悪漢と戦う念願の西部劇『EAST MEETS WEST』で初の米国ロケ中に言語障害を起こし、硬膜下血腫と診断される。その後も軽い脳梗塞などを起こし、言語が不明瞭であった。以来、しばらく活動が止まっていたが、2002年(平成14)に『助太刀屋助六』を監督。78歳という年齢を感じさせない痛快娯楽時代劇に仕上げ、エネルギッシュで軽快な「喜八タッチ」の健在ぶりを示した。同作では主演の真田広之が伝令など補佐役を務めたり舞台挨拶などでも傍につき、会場の反応などを伝えていた。ただし、インタビューや講演などではかなり古い作品についても答えており、制作意欲も依然旺盛であった。亡くなる直前まで、山田風太郎作の『幻燈辻馬車』の映画化を構想し、配役は仲代達矢、真田広之、緒形拳ら、音楽は山下洋輔と決まり、シナリオを練っていたが、2005年(平成17年)2月19日、食道癌のため神奈川県川崎市多摩区の自宅で死去。享年81。


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反骨精神とユーモア溢れる作品を量産してきた岡本喜八。国家への反逆や皮肉さが織り込まれた内容を、軽快なテンポと独創的なカメラワークで痛快娯楽作品として見事に昇華させているその作風は「喜八タッチ」と呼ばれた。こうした世界観の根底に流れていたのは、自身の体験に基づく戦争への憤りであった。自らを活動屋と呼び、ユーモラスな作品群で戦後の日本映画界に貢献した岡本喜八の墓は、鳥取県米子市の西念寺と神奈川県川崎市の春秋苑にある。後者の墓には直筆で「岡本喜八」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「喜雲院釋種映現居士」。
by oku-taka | 2020-06-14 15:47 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)