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市川崑(1915~2008)

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市川 崑(いちかわ こん)

映画監督
1915年(大正4年)~2008年(平成20年)

1915年(大正4年)、三重県宇治山田市(現在の伊勢市)に生まれる。出生名は、市川 儀一。呉服問屋の生まれであったが、父が急死し、4歳から伯母の住む大阪市西区九条に移り、その後脊椎カリエスで長野県に転地療養。その後広島市に住む。17歳のときに信州での初恋の女性をモデルに書いた「江戸屋のお染ちゃん」を『週刊朝日』に投稿し当選する。当初は画家に憧れていたが、当時は財産がないと難しかったのであきらめる。また、成人してから市川崑に改名。その理由は、市川自身が漫画家の清水崑のファンであったからとも、姓名判断にこっていた伯父の勧めからとも言われている。1932年(昭和7年)、伊丹万作監督作品『國士無双』を見て感動し、志望を映画界に変更した。少年時代に見たウォルト・ディズニーのアニメーション映画にあこがれ、親戚の伝手で京都のJ.O.スタヂオ(のち東宝京都撮影所)のトーキー漫画部に入り、アニメーターを務める。アニメの下絵描きからスタートし、『ミッキー・マウス』や『シリー・シンフォニー』などのフィルムを借りて一コマ一コマを克明に分析研究し、映画の本質を学んだ。1936年(昭和11年)には脚本・作画・撮影・編集をすべて一人でおこなった6分の短編アニメ映画『新説カチカチ山』を発表。しかし、漫画部の閉鎖とともに会社合併により実写映画の助監督に転じ、伊丹万作、阿部豊らに師事。特に米国仕込みのモダニストとして鳴らした阿部の影響は大きく、阿部作品からは後年『細雪』(映画)『戦艦大和』(テレビ)『足にさはった女』(映画、テレビの両方)をリメイクしたほか、師が断念した『破戒』もテレビと映画の両方で実現している。その後、京都撮影所の閉鎖にともなって東京撮影所に転勤。この東宝砧撮影所は、短い新東宝時代、10年程度の日活・大映時代を除き、終世のホームグラウンドとなった。1945年(昭和20年)、人形劇『娘道成寺』を制作したがお蔵入りした。終戦後は実写の助監督に戻り、1948年(昭和23年)に『花ひらく』で監督デビュー。その後、新東宝撮影所に転じ、1951年(昭和26年)に藤本真澄に誘われ東宝に復帰した。この時期は『プーサン』や『億万長者』などの異色風刺喜劇や早口演出の『結婚行進曲』、大胆な映像処理の『盗まれた恋』などの実験的な作品で話題を呼んだが、『三百六十五夜』のようなオーソドックスなメロドラマの大ヒット作品も撮っている。1955年(昭和30年)、前年に映画制作を再開したばかりの日活に移籍。『ビルマの竪琴』を発表し、エディンバラ国際映画祭グランプリ、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、リスボン国際映画祭審査員特別賞に輝いたが、大映に移籍する。ここでは文芸映画を中心に、『鍵』、『野火』、『炎上』、『破戒』、『黒い十人の女』、『日本橋』、『ぼんち』、『私は二歳』、『雪之丞変化』などを毎年のように発表した。とりわけ1960年(昭和35年)の『おとうと』は、大正時代を舞台にした姉弟の愛を宮川一夫のカメラで表現し、自身初のキネマ旬報ベストワンに輝く作品となった。また、『野火』でロカルノ国際映画祭グランプリとバンクーバー国際映画祭カナダ映画協会賞、『鍵』でカンヌ国際映画祭審査員賞、『おとうと』でカンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会賞スペシャルメンション、『私は二歳』でアジア映画祭監督賞に輝くなど、世界でも高く評価された。1965年(昭和40年)、総監督として製作した『東京オリンピック』が、当時の興行記録を塗り替えた。市川はオリンピックは筋書きのない壮大なドラマに他ならないとして、開会式から閉会式に至るまでの脚本を和田夏十・谷川俊太郎・白坂依志夫とともに書き上げ、これをもとにこのドキュメンタリー映画を撮りあげた。しかも、冒頭に競技施設建設のため旧来の姿を失ってゆく東京の様子を持ってきたり、一つのシーンを数多くのカメラでさまざまなアングルから撮影したりした。また、2000ミリ望遠レンズを使って選手の胸の鼓動や額ににじむ汗を捉えたり、競技者とともに観戦者を、勝者とともに敗者を描くなど、従来の「記録映画」とは全く性質の異なる作品に仕上げた。だが、完成前の試写を見たオリンピック担当大臣の河野一郎が「記録性に欠ける」と批判したことから、「『東京オリンピック』は記録映画か芸術作品か」という大論争を呼び起こすことになった。同作は、カンヌ国際映画祭青少年向映画賞、UNICRIT賞、英国アカデミー賞長編記録映画賞、国連平和賞、モスクワ国際映画祭スポーツ連盟賞を受賞した。一方、テレビ映像およびテレビ放送の開始で、映画が全盛期から斜陽期へと向かう時代が忍び寄る中、映画関係者の中にはテレビに敵対意識を持ったり、蔑視する者が少なくなかった。そんな中、市川はテレビの新メディアとしての可能性に注目し、映画監督としてはいち早く1959年(昭和34年)よりこの分野に積極的に進出した。市川はテレビ創成期の生放送ドラマ、ビデオ撮りのドラマから実験期のハイビジョンカメラを使ったドラマまでを手掛けた。1965年(昭和40年)から1966年(昭和41年)にかけて放送された『源氏物語』(毎日放送)では、美術や衣装を白と黒に統一するなど独特の演出を手がけ、演出指導を務めた「夕顔の巻」では国際エミー賞にノミネートされた。テレビコマーシャルでは、大原麗子を起用したサントリーレッド(ウイスキー)がシリーズ化され、長年に渡って放映された。1972年(昭和47年)に監督・監修を手がけた、中村敦夫主演の連続テレビ時代劇『市川崑劇場・木枯し紋次郎シリーズ』(フジテレビ)はフィルム撮り作品だが、斬新な演出と迫真性の高い映像から名作としての評価を得て、その後のテレビ時代劇に大きな影響を与えた。また、全民間テレビ放送局で同時放送された『ゆく年くる年』においても、1979年(昭和54年)から1980年(昭和55年)(東京12チャンネル制作)まで総監督を務めた。1969年(昭和44年)には黒澤明、木下惠介、小林正樹と4人で「四騎の会」を結成し、『どら平太』の脚本を共同で執筆、当初は4人共同監督で映画化と発表されたが、市川の撮影シーンをどの部分にするかでもめて中止となる。市川は生涯を通じて自己出資の映画はほとんど撮っておらず大手の雇用監督に徹しており、頓挫した本作と後年の『股旅』が例外となるが、ここで既に予算管理に目配りする傾向を示していたことは、後年の東宝におけるプロデューサー兼任待遇につながっている。また、この前後の約10年ほどは作品活動も沈滞気味で、1973年(昭和48年)の『股旅』が高評価を得たり、TVの『木枯らし紋次郎』がヒットしたりしたものの、メジャー映画でこれといった代表作を出すことができず、スランプや衰弱が囁かれたこともあった。ホームグラウンドであった大映が衰退・倒産し、基本的には復帰の方向となった東宝も自社製作を大幅縮小したばかりということで、十分に腕を振るう機会が得にくくなったということもある。しかし、1970年代後半に入り、横溝正史の『金田一耕助シリーズ』を担当。『犬神家の一族』は、連日の大量CMのおかげで大ヒットとなり、同年のキネマ旬報ベストテン5位、同読者選出1位、第1回報知映画賞作品賞など好評価を獲得。これを機に横溝正史ブームが始まる。さらに、『細雪』、『おはん』、『鹿鳴館』などの文芸大作、海外ミステリーを翻案した『幸福』、時代劇『四十七人の刺客』、『どら平太』、『かあちゃん』など、多彩な領域で成果を収める。1982年(昭和57年)に紫綬褒章、1988年(昭和63年)には勲四等旭日小綬章を受章した。90歳を超えても現役で活動し、2006年(平成18年)には30年前に監督した『犬神家の一族』をセルフリメイクした。2008年(平成20年)2月13日午前1時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去。享年92。3月11日、日本政府は閣議に於いて市川に対し、長年の映画界への貢献及び日本文化の発展に尽くした功績を評価し、逝去した2月13日に遡って正四位に叙すると共に、旭日重光章を授与することを決定した。


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『ビルマの竪琴』『東京オリンピック』『犬神家の一族』など次々にヒット作を生み出した娯楽映画の巨匠・市川崑。アニメーションからスタートして実写映画に転身して成功を収めた数少ない映画人であり、多岐にわたるジャンルでヒットを量産した。また、スローモーションの多用、細かいカット割り等は「市川マジック」と呼ばれ、若松孝二、岩井俊二といった後進にも強い影響を与えた。庵野秀明に至っては、自身の作品に市川の作風を取り入れるほどの敬愛っぷりである。咥え煙草にカメラを回す姿が印象的だった市川崑の墓は、神奈川県川崎市の春秋苑にある。洋形の墓には「市川家」とあり、左側に墓誌が建つ。洗礼名は「パウロ」。
by oku-taka | 2020-06-14 13:49 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)