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和田夏十(1920~1983)

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和田 夏十(わだ なっと)

脚本家
1920年(大正9年)~1983年(昭和58年)

1920年(大正9年)、兵庫県姫路市に生まれる。本名は、市川 由美子(いちかわ ゆみこ)、旧姓は茂木(もぎ)。 1941年(昭和16年)、東京女子英専を卒業。郵便局勤務を経て、通訳として東宝撮影所に入る。その後、脚本の校正をしたのがきっかけで映画監督の市川崑と知り合う。市川は文才とアイディアに満ちあふれる茂木を愛し、二人は1948年(昭和23年)に結婚。茂木は以後35年にわたって市川の生活を支えるかたわら、脚本家・和田夏十としてその生涯でほとんどの市川作品の脚本を手がけるという、文字通り公私における市川のパートナーとなった。そもそも「和田夏十」という名は、東宝撮影所時代に市川と茂木が共同執筆するために考案したペンネームだった。「和田」は茂木がNHKの和田信賢アナウンサーのファン、「ナット」は市川がイギリスの二枚目俳優ロバート・ドーナットのファンだったことに由来する。しかし、夫婦が初めてタッグを組んだ1951年(昭和26年)の『恋人』で市川が「脚本の才能ではとても妻に及ばない」とこれを茂木に譲り、以後は彼女専用のペンネームになったという経緯がある。その後も喜劇調の『足にさわった女』『愛人』等を書くが、1953年(昭和28年)の『プーサン』、1954年(昭和29年)の『億万長者』あたりから社会批判の鋭い脚本、精神性が深いものを書き始める。以後、『ビルマの竪琴』『炎上』『野火』『破戒』などの脚本を書き、1962年(昭和37年)の『私は二歳』はホームドラマの傑作といわれた。1963年(昭和38年)、アジア映画祭で脚本賞を受賞。乳癌発症後は闘病で脚本執筆が思うようにできない時期もあったが、それでも市川にさまざまなアドバイスをして和田風の脚本を書かせており、クレジットの有無にかかわらず和田夏十は市川映画と不可分の存在だった。晩年はシナリオの執筆から一線を退き、主にエッセイを書いていた。1983年(昭和58年)2月18日、18年間の乳癌との闘病の末に死去。享年62。


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妻として、脚本家として、名匠・市川崑を支えた和田夏十。『プーサン』『ビルマの竪琴』『炎上』『黒い十人の女』と初期の市川作品をほとんど手がけた。その作品は驚くほどに傑作揃いで、市川崑の黄金期は和田夏十によって築かれたといって過言ではないと思えるほどである。実際に市川は、自己の監督作品が称賛されると「それは夏十さんの功績です」と答えていたほど、彼女の力はたいへんに大きかった。そんな和田夏十の墓は、神奈川県川崎市の春秋苑にある。洋形の墓には「市川家」とあり、左側に墓誌が建つ。洗礼名は「マリア スコラスティカ」。
by oku-taka | 2020-06-14 12:47 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)