人気ブログランキング | 話題のタグを見る

古関裕而(1909~1989)

古関裕而(1909~1989)_f0368298_01032391.jpg

古関 裕而(こせき ゆうじ)

作曲家
1909年(明治42年)~1989年(平成元年)

1909年(明治42年)、福島県福島市に生まれる。本名は、古關 勇治(読み同じ)。父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつもレコードをかけていた。古関は幼少の頃から音楽の中で育ち、ほとんど独学で作曲の道を志していく。1916年(大正5年)、福島県師範学校附属小学校(現在の福島大学附属小学校)に入学。担任の遠藤喜美治が音楽好きで、音楽の指導に力を入れていた。古関は10歳の頃には楽譜が読めるようになり、授業だけでは物足りなくなり、市販の妹尾楽譜などを買い求めるようになった。ますます作曲に夢中になり、次第にクラスメイトが詩を持って古関に作曲を依頼してくるようになる。こうして子供の頃から作曲に親しむこととなった。1922年(大正11年)、旧制福島商業学校(現在の福島商業高等学校)に入学。同校に進学したのは家業を継ぐためであったが、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に夢中だったという。そのため、妹尾楽譜や山田耕筰著の「作曲法」等を買い集め、独学での作曲法の勉強を続けていた。学校を卒業する頃には、当時の日本では有数のハーモニカバンドであった福島ハーモニカーソサエティーに入団。古関は作曲・編曲・指揮を担当。地元の音楽仲間が主宰していた「火の鳥の会」が近代音楽家のレコードコンサートを開いており、ここで初めて近代フランス、ロシアの音楽に出会い、衝撃を受ける。傾倒したのは、リムスキー=コルサコフの『シェエラザード』とストラヴィンスキーの『火の鳥』、ドビュッシー、ムソルグスキーなどである。1928年(昭和3年)、福島商業学校を卒業。母方の伯父に誘われ、伯父が頭取を務める川俣銀行(現在の東邦銀行川俣支店)に勤務。町内の寄宿先である母の生家から通勤する一方で、作曲の勉強を続けていた。この頃、学生時代から憧れていた山田耕筰の事務所へ楽譜を郵送し、何度か手紙のやり取りを行っている。また、リムスキー=コルサコフの弟子で仙台に在住していた金須嘉之進に師事することになった。1929年(昭和4年)、管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』をイギリスロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募し、二等入賞を果たす。これは日本人初の国際的作曲コンクールにおける入賞であり、1930年(昭和5年)1月23日の福島民報新聞で大々的に報道された。この入賞の報道を読んだ、声楽家志望で愛知県豊橋市在住の内山金子が古関にファンレターを送り、その後も約100通に及ぶ熱烈な文通を経て、1930年(昭和5年)6月に結婚となった。9月、コロムビアの顧問だった山田耕筰の推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京。東京では菅原明朗に師事したが、実家が経済的に破綻してからは一族を養わなくてはならず、次第にクラシックの作曲から離れざるをえなくなった。コロムビア入社も主に生活費のためであったと考えられる。古関本人は作曲の勉強のための洋行を希望していたが、それも叶わなかった。1931年(昭和6年)、早稲田大学応援歌『紺碧の空』を作曲。しかし、歌謡曲でのヒットはなかなか出せずにいた。1935年(昭和10年)、新民謡調の『船頭可愛や』(詩:高橋掬太郎、唄:音丸)が大ヒットし、人気作曲家の仲間入りを果たす。戦時中は数々の戦時歌謡を発表。古関メロディーのベースであったクラシックと融合した作品は、哀愁をおびたせつない旋律のもの(『愛国の花』『暁に祈る』など)が多かったが、それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。一方、自らの作品で戦地に送られ、戦死した人への自責の念を持ち続けていた。戦後は、暗く不安な日本を音楽によって明るくするための活動に力を注ぎ、『長崎の鐘』『イヨマンテの夜』『高原列車は行く』などを発表。また、戦災孤児の救済がテーマのラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌『とんがり帽子』を皮きりに劇作家の菊田一夫とコンビを組み、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、ミュージカルのヒット作品を世に送り出した。このほか、現在も毎年夏の甲子園に流れている高校野球大会歌『栄冠は君に輝く』、戦後日本の発展の象徴でもある1964年(昭和39年)開催の東京オリンピックの開会式に鳴り響いた『オリンピック・マーチ』など、勇壮で清潔感のあるスポーツ音楽が大衆の心をとらえた。1969年(昭和44年)、紫綬褒章を受章。1972年(昭和47年)、10月にスタートしたフジテレビ系の音楽番組『オールスター家族対抗歌合戦』に審査員として出演。1979年(昭和54年)、勲三等瑞宝章を受章。1988年(昭和63年)11月12日、福島市に「福島市古関裕而記念館」が完成。しかし、古関はこの頃すでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来なかった。傘寿の誕生日を迎えて1週間足らずの1989年(平成元年)8月18日午後9時30分、脳梗塞のため聖マリアンナ医科大学病院で死去。享年80。古関の没後、国民栄誉賞の授与が遺族に打診されるも古関の遺族はこれを辞退。その理由について、古関の長男は「元気に活動しているときならともかく、亡くなったあとに授与することに意味があるのか」と没後追贈に疑問を持ったためとしている。


古関裕而(1909~1989)_f0368298_01032346.jpg

古関裕而(1909~1989)_f0368298_01032441.jpg

NHK朝の連続テレビ小説『エール』のモデルとなり、その生涯が注目を集めている作曲家の古関裕而。その作品は、勇ましくもどこか哀愁さを帯びた戦時歌謡、希望に満ちた明るいラジオ歌謡、心躍る勇壮なスポーツソングと実に幅広い。「モスラーイヤッ」でおなじみ映画『モスラ』の挿入歌も古関作曲によるものである。クラシックで身に着けた格調高くも親しみやすいメロディーは聴く人の心を捉え、インドネシアのスカルノ大統領が『愛国の花』をたいへん好むなど、その作風は日本のみならず世界の人をも魅了した。いつも柔和な笑顔と穏やかな口調が印象的だった国民的作曲家の墓は、神奈川県川崎市の春秋苑にある。洋形の墓には「古関家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「聖山院導響裕徳大居士」。

by oku-taka | 2020-06-14 01:28 | 音楽家 | Comments(0)