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北の湖敏満(1953~2015)

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北の湖 敏満 (きたのうみ としみつ)

力士
1953年(昭和28年)~2015年(平成27年)

1953年(昭和28年)、北海道有珠郡壮瞥町に生まれる。 本名は、小畑 敏満(おばた としみつ)。幼い頃から食欲旺盛だったことから堅太りであり、特に小学校6年生からの成長ぶりが著しく、12歳の時に身長160cm強、体重60kg程度の体格だったものが、13歳の中学1年生の時点で、既に身長173cm、体重100kgに達していた。恵まれた体格であってもただの巨漢ではなくスポーツ万能で、特に柔道には滅法強く、中学1年生で初段となり、町の柔道大会「胆振西部大会」では体格も倍以上あった高校生を破って優勝した。一方で相撲は経験が皆無であり、「北海道南部に怪童あり」との噂を聞きつけた多くの相撲部屋から熱心に勧誘され、中学へ入学した頃には引退したばかりの北葉山が自身の元を訪れたこともあったが、女将が手編みの靴下を送ってくれたことで三保ヶ関部屋に入門。母は何度も入門を反対し、根負けして入門を認めた際には「強くなるまで帰ってくるな」と言った。入門に際して北海道から上京して墨田区立両国中学校へ転校。1967年(昭和42年)1月場所、9代三保ヶ関の長男であり、後に大関となる増位山とともに初土俵を踏む。四股名の「北の湖」は、故郷にある洞爺湖にちなんで9代三保ヶ関が命名した。中学生の頃から得意だった柔道を始め、野球・水泳・スキーで鍛えたスポーツ万能の体を生かしてスピード出世し、最年少昇進記録 (当時) を次々に樹立。三段目で一度だけ7戦全敗したことがあり、幕下時代に虫垂炎と右足首の亀裂骨折を経験した。しかし、中学卒業間際の1969年(昭和44年)3月には15歳9ヶ月で幕下に昇進するなど「北の怪童」の異名を取り、十両以下の優勝 (下位優勝) がないまま、1971年(昭和46年)5月場所に17歳11ヶ月で十両に昇進した。1972年(昭和47年)1月場所には新入幕 (18歳7ヶ月) を果たし、この場所は5勝10敗と負け越して十両に陥落したがすぐに再入幕。1973年(昭和48年)には19歳7ヶ月で小結に昇進。9月場所は小結で8勝7敗と勝ち越し、11月場所で関脇に昇進するが、9勝2敗で迎えた12日目に足首を骨折する重傷を負った。このまま休場を予想されたが、千秋楽まで出場して10勝を挙げた。1974年(昭和49年)1月場所では14勝1敗で初優勝を果たして大関に昇進すると、5月場所で13勝2敗で2回目の優勝、さらに7月場所でも13勝2敗の成績で優勝決定戦まで進んで敗れたものの、場所後に21歳2ヶ月の若さで横綱へ昇進した。横綱昇進後の1974年(昭和49年)と1975年(昭和50年)は、優勝回数が2回にとどまっており、1976年(昭和51年)9月場所は平幕の魁傑に優勝を許している。それでも、この場所では14勝1敗で平幕優勝した力士に横綱として全勝を阻止する星を付けるという、優勝制度発足以降初となる記録を達成している。1977年(昭和52年)3月場所は、全勝の北の湖を1敗の輪島が追いかける展開だったが、14日目の結び前に輪島が敗れ、結びで北の湖が若三杉に勝利して優勝を決めた瞬間、館内には不満や抗議の意味で座布団が舞う異常な事態となった。強い横綱が敗れて金星を提供した際に、勝った下位力士を讃える意味で座布団が舞うことは多いが、横綱が勝って座布団が舞うというケースは極めて異例だったが、北の湖は動じずに千秋楽も勝利して自身初の全勝優勝を果たしている。これ以降は5場所連続優勝 を果たすなど「憎らしいほど強い横綱」と言われるようになり、敗れると観衆が湧くことになった。1970年代後半には、1960年代に子供が好きだった物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」をもじって、子供が嫌いな物として「江川・ピーマン・北の湖」という呼び方が揶揄的になされた。また、北の湖と同時代には、絶大な人気を誇った美男力士 (貴ノ花・千代の富士・蔵間など) が多く、そういった人気者を容赦なく倒す北の湖は必然的に「敵役」と見なされる運命にあった。それでも、先輩横綱である輪島は最高の好敵手であり、「輪湖(りんこ)時代」を築いた。輪島との通算成績は21勝23敗でほぼ互角で、優勝は両者合わせて38回。特に1975年(昭和50年)9月 - 1978年(昭和53年)1月までの15場所間の千秋楽結びの一番は全て「輪島 - 北の湖」という対戦で、千秋楽の結び対戦連続回数15回は史上1位である。当時最長記録であった「37場所連続2桁勝利」を続けていた1975年(昭和50年)9月場所から1981(昭和56年)年9月場所までの6年間は、ほぼ全ての場所で終盤まで優勝争いの中心に存在していた。また、初土俵から1度も休場しない抜群の安定感を誇ったが、1981年(昭和56年)の夏巡業中に膝を痛めたことが響き、同年9月場所は皆勤するも (10勝5敗) 、11月場所9日目でついに不戦敗・途中休場した。ここで通算 (幕内) 連続勝ち越し50場所・幕内連続2桁勝利37場所とそれぞれストップするが、昇進後7年間も休場しない横綱は他に例がなかった。1982年(昭和57年)1月場所は13勝2敗で優勝したものの、次の3月場所は11勝4敗にとどまる。これ以降は足や腰の故障との戦いが続き、5月場所は途中休場、7月場所は初の全休。休場明けの9月場所は初日に大寿山に吊り出されるなど、全盛期には考えられない負け方で敗れた。その後は勝ち進んで立ち直ったかに見えたが、終盤に崩れて10勝5敗に終わった。11月場所と1983年(昭和58年)1月場所は途中休場、さらに3月から7月場所にかけては3場所連続で全休。このように、休場の連続で並の横綱なら完全に引退に追い込まれているような状況にも関わらず、北の湖にはそれが許された。その理由として、長年に渡って相撲界を支えてきた功績を評されてのものだった。進退を賭して臨むこととなった9月場所は初日から4連勝したが、その相撲で大ノ国を破った際に脚を故障、再び途中休場した。事情はどうであれ「休場=即引退」という状況の11月場所は11勝4敗。終盤まで優勝争いに加わって引退危機を脱したが、1984年(昭和59年)1月場所では8勝7敗に終わり、場所後の横綱審議委員会でも「気の毒で見ていられない」「引退したほうが良い」などの声が相次いだ。3月場所は10勝5敗と、かつてなら批判に晒されたこの成績も「良くやった」と見る向きが多かった。ついに第一人者の座を千代の富士・隆の里に明け渡し、完全に世代交代かと思われていた5月場所、久々の優勝を15戦全勝で達成した。この場所13日目に弟弟子の北天佑が隆の里を下した瞬間に北の湖の優勝が決定したが、控えに座る北の湖に対して北天佑が土俵上で微笑むと、北の湖が笑みを返したシーンは特に有名。結果的にこれが自身最後の優勝となった。全盛期を過ぎて体力が衰えたことへの同情から、この時期になるとかつての悪役イメージは薄れ、勝って拍手が贈られることもあった。5月場所の全勝優勝を期に、さらなる復活を期待された北の湖だったが長くは続かず、7月場所は序盤こそ前場所の勢いを継続するかのように快勝の連続だったが11勝4敗に留まり、これが最後の皆勤場所となった。場所前には好調が伝えられた9月場所は横綱昇進後で初となる初日からの連敗で途中休場、11月場所は7日目から2場所連続で途中休場した。この時には引き際を疑問視する声が相次いだ。1985年(昭和60年)1月場所、こけら落としとなった両国国技館の土俵に現役で臨んだが、ケガが完治せずに土俵に上がれる身体ではなかった。それでも、国技館建設に携わって開館を心待ちにしていた春日野から「晴れの舞台に横綱が休場することはできない。潔く散る覚悟で出よ」との言葉を受けて強行出場。国技館での北の湖は、初日の旭富士、2日目の多賀竜と相次いで全く良い所なく敗れて2連敗。所有していた年寄名跡・小野川を他の力士に貸していたため、横綱特権での5年時限の年寄襲名前提で引退届を提出した。引退表明後、協会より現役時代の功績に対して一代年寄・北の湖が授与された。現役時代に所属していた三保ヶ関部屋には、既に三保ヶ関の長男である増位山太志郎が部屋の後継者となることが暗黙の了解となっており、北の湖も自身の抜群の実績と人柄が評価され、現役引退後の独立と新部屋創設は規定路線とされていた。当人やその周囲は、大坂相撲ゆかりで三保ヶ関とも縁のある小野川の襲名と小野川部屋再興の意向を持っていたが、前述したとおり現役時の実績から一代年寄「北の湖」を贈られ、これを受け入れて北の湖部屋を創設。現役引退後にはNHKの大相撲中継の解説を度々務め、また報知新聞社専属評論家を務めた。日本相撲協会では、引退の2年後に審判委員に抜擢されたことを皮切りに、1988年(昭和63年)には監事 (現在の副理事) として審判部副部長などを務め、1996年(平成8年)には理事に昇格。1998年(平成10年)には事業部長に就任し、2002年(平成14年)に第9代理事長へ就任した。理事長としては、境川が実施した「年寄株貸借の禁止」という改革を廃止して復活、同じく境川が実行した「イベント会社と提携した協会自主興行巡業」を止め、勧進元興行による巡業も復活、総合企画部の設置、広報部の強化によるファンサービスの充実、土俵の充実を目指し、幕内・十両の定員をそれぞれ東西1枚(2人)増員させた代わりに公傷制度を廃止、海外公演を実行するなどした。2006年(平成18年)2月より理事長3期目を迎え、協会の事業部長に二所ノ関一門の先輩理事を2期据えてきたが、3期目は同じ出羽海一門の武蔵川を事業部長にすることで「攻め」の姿勢も見せている。また、勧進元制に復しながらも実績不振に陥っている巡業を強化するため、2期目まで監事2名だった巡業部副部長を契約推進担当 (高田川) を含めた3名にして巡業部スタッフを強化した。2007年(平成19年)、時津風部屋で序ノ口力士が時津風や兄弟子から集団リンチを受けて死亡した時津風部屋力士暴行死事件が起きたことを受けて、文部科学省は日本相撲協会と北の湖に対し、事件の経緯や隠蔽工作の有無などについての説明を求めた。北の湖は9月29日に文部科学省を訪れて経緯を説明するとともに、協会の管理に不備があったことを認め、協会を代表して渡海紀三朗文部科学大臣に謝罪した。10月5日には時津風を解雇し、協会各部に対しては事件の真相究明と再発防止、そして過去に類似した事件がなかったかどうかについての調査を指示、さらに「再発防止検討委員会」を設置した。7月30日、朝青龍のバッシング騒動について、朝青龍と師匠の高砂から説明と謝罪を受ける。同年8月1日、朝青龍に対して2場所の出場停止と4ヶ月間の自宅・部屋・病院以外で特別な事情がない限り外出を認めない謹慎、4ヶ月30%減俸の処分を下す。9月10日、東京相撲記者クラブ会友である杉山邦博の相撲取材証を、北の湖敏満名義で没収した。2007年7月から続いていた朝青龍の問題に関し、テレビ番組を通じて朝青龍の謝罪を求め、間接的に日本相撲協会への批判を展開したことが理由とされる。この件に関しては記者クラブが抗議し、他の報道機関からも「言論統制」と非難された。会友ではなく「相撲評論家」の肩書きだったのが問題だったとして、12日になって措置は撤回して取材証は杉山へ返還されたが、今後は「記者クラブに一任した上で」としたが、これからも同じような没収をする可能性にも触れたため、記者クラブとは溝が深まった。2008年(平成20年)2月、定例の役員選挙で出羽海一門代表として理事に再選、役員の互選により理事長に4選された。広報部長に九重、審判部副部長に貴乃花を抜擢した。しかし、2月7日に前・時津風が愛知県警察に傷害致死容疑で逮捕されたことを受け、就任したばかりの九重と伊勢ノ海を報告のために文部科学省に行かせたことは、「なぜ理事長自らが文部科学省に行って報告しないのか」と批判を呼んだ。9月8日、弟子の白露山の関与も明らかとなった大相撲力士大麻問題が世間の耳目を集める中で開催された日本相撲協会の臨時理事会において、理事長を辞任して理事 (大阪場所担当部長) に降格、後任理事長には武蔵川が選出された。2010年(平成22年)8月に後任の武蔵川が辞任した際の理事長選挙に再び立候補したものの、4票しか獲得できず、8票獲得した放駒に敗れた。2011年(平成23年)4月6日、大相撲八百長問題で弟子が関与したことを受けて、理事から役員待遇委員 (大阪場所担当部長代理) に降格。2012年(平成24年)1月30日に行われた日本相撲協会理事選挙に再び立候補し、理事長に当選。過去に辞任した理事長が復帰を果たしたケースは、日本相撲協会史上初となる。2013年(平成25年)5月16日には満60歳の還暦を迎え、同年5月場所後の6月9日に両国国技館で、記念パーティー開催と赤い綱を締めての還暦土俵入りを披露した。なお、土俵入りでの太刀持ちは九重親方 (第58代横綱千代の富士) 、露払いは貴乃花親方 (第65代横綱貴乃花) と、北の湖同様幕内20回以上優勝した元大横綱がそれぞれ務めている。また、日本相撲協会の理事長在任中に還暦土俵入りを行ったのは、二子山親方 (第45代横綱・初代若乃花) 以来25年ぶり4人目となった。この還暦土俵入りに際して、直腸癌を患っていたことも明らかになった。大相撲八百長問題を受けて中止に追い込まれた時期に医師の診断を受けており、その後に内視鏡手術を受けたと報道されている。療養に専念すべきところだったが、大相撲の人気回復を目標として理事長職に再登板するなど職務に徹してきたが、同年5月場所以降は検査入院するなど体調を崩すことがあり、広報部の玉ノ井副部長 (元大関・栃東) は「数値が正常値まで戻っていない」と説明する苦しい状況であった。年末にも大腸ポリープを切除する手術を受け、当初は2014年(平成26年)明けから公務に復帰する予定だったが、腸閉塞を併発し入院を余儀なくされ、結局1月場所は初日から7日目までを休場することとなり、復帰までの理事長代行は九重事業部長(元横綱・千代の富士)に任された。その後も回復が遅れ、実際に復帰したのは予定よりも2日遅い場所10日目からであった。復帰後も依然として体調が思わしくなかったが、1月31日に公益法人移行後初となる理事改選で互選により引き続き理事長職を務めることが決定。これによって評議員の決議を経て発足する新法人の初代理事長に就任する運びとなった。しかし、2015年(平成27年)7月場所中の7月17日に再び体調不良を訴え、名古屋から帰京し再入院。「両側水腎症」と診断され手術し、同年8月8日に一旦退院したものの、腰痛の悪化などの理由により、翌9月場所の初日前日の土俵祭、及び初日・千秋楽恒例の理事長挨拶を欠席。代役として八角事業部長(元第61代横綱・北勝海)が務めていた。11月場所も初日の挨拶を欠席。11月18日、17日に行われた場所10日目の取組で白鵬が栃煌山に猫だましを行ったことに対して苦言を呈したが、これが生前最後となる北の湖のメディア上での発言となった。その11月場所最中の11月19日夜に、持病の貧血の症状を示し、翌日朝に救急車で福岡市の済生会福岡総合病院に搬送されて緊急入院。点滴治療などを受けていたが、同日午後6時55分、直腸癌による多臓器不全のため死去。享年62。現職の日本相撲協会理事長の死去は、1968年(昭和43年)12月の時津風理事長 (元第35代横綱・双葉山)に次いで2人目であり、本場所中での理事長の死去は大相撲史上初であった。北の湖の死去により、八角事業部長が理事長代行に就任。日本政府は北の湖の相撲界への貢献を讃え、没日の11月20日付をもって従四位に叙し、旭日重光章を追贈することを決定した。


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第55代横綱として優勝回数24回という記録を残し、日本相撲協会の理事長としても史上初の再選を果たして角界の発展に尽力した北の湖敏満。現役時代はその強さから「憎たらしいほど強い」と評され、負ければ拍手が送られるほどに喜ばれる。また、共に「輪湖時代」を築いたイケメンの輪島に対し、そのムスッとした顔つきから「ふてぶてしい」と言われ、子供が嫌いな物として「江川・ピーマン・北の湖」と揶揄されるなど、これほどまでに嫌われる強者はいないのではないかと思うくらいの扱いを受けていた。そうした世間からの悪評に耐え、63場所も在位したという精神力のタフさには驚かざるを得ない。「昭和の大横綱」の一人として、その生涯を相撲に捧げた北の湖の墓は、神奈川県川崎市の平間寺にある。川崎大師として平日も参拝客でにぎわう境内にひっそりと建つ洋形の墓には「小畑家」とあり、右横に手形、その後ろに墓誌が建つ。戒名は「弘照院殿北偉徳実法湖大居士」。

by oku-taka | 2020-06-07 23:53 | スポーツ | Comments(0)