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大川慶次郎(1929~1999)

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大川 慶次郎(おおかわ けいじろう)

競馬評論家
1929年(昭和4年)~1999年(平成11年)

1929年(昭和4年)、青森県八戸市の大平牧場で競走馬を生産するオーナーブリーダーであった大川義雄の二男として、東京府北豊嶋郡王子町(現在の東京都北区王子)に生まれる。幼少の頃より大平牧場や東京の外厩で競走馬を間近に見て育った。また、義雄に連れられて競馬場にも足繁く通い、1938年(昭和13年)の東京優駿を実際に観戦した最も古いレースとして晩年まで記憶していた。そうしたことから、父の跡を継いでオーナーブリーダーとなることを志したが、太平洋戦争後に行われた農地改革の影響で大平牧場は人手に渡ることとなり、一競馬ファンとして生きることを余儀なくされる。1947年(昭和22年)、東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。1948年(昭和23年)に慶應義塾大学へ入学し、翌年に競馬サークル「いななき会」を設立。同会のメンバーであった学生の父親が河野一郎の支援者であった縁から河野を顧問に迎える。これを期に、公職追放中であった河野はしばしば大川とともに競馬場に通うようになり、政界復帰後に馬主・競走馬生産者として活発に活動するきっかけとなった。1952年(昭和27年)、慶應義塾大学を卒業。高千穂製紙(後に日本パルプ工業を経て現在の王子ホールディングス)に就職する。しかし、会社員生活は性に合わず、考えるのは競馬のことばかりで、毎週土曜日になると営業に出るふりをして会社の裏にある場外馬券売り場に馬券を買いに行った。結局入社から3年経った1955年(昭和30年)に同社を退社し、明治座社長だった新田新作の競馬担当秘書となる。大川のおもな仕事は新田が競走馬を預託する藤本冨良調教師との連絡役であった。秘書となった年、新田所有の4歳馬メイヂヒカリはクラシックの有力候補であった。しかし、皐月賞を目前に控えた時期になってメイヂヒカリの飛節に肉腫ができていることが判明。無理をせずに休養をとらせたい藤本の意を受けた大川は無理にでも皐月賞に出走させようとする新田の説得にあたり、「未来がある馬だから出走させないでくれ。それに大金を投じて馬券を買うファンに迷惑がかかる」と土下座までしてみせた。新田は大川の説得に渋々応じたが、療養の甲斐もあってメイヂヒカリは立ち直り、菊花賞ではこの年のダービー馬・オートキツを10馬身突き放す圧勝。その後、1956年(昭和31年)には天皇賞(春)・中山グランプリを制し年度代表馬に選ばれるほどの活躍をした。同年、新田新作が死去し、また同時期に別の馬主の依頼で務めていた生産牧場(東北牧場)の牧場長を辞したため無職となる。東北から上京した大川は、はじめ白井新平に請われて『競週』の予想家となったがまもなく同紙から離れ、手刷りの予想紙(『レーシング・ヒント』)を売る生活を送る。やがて河野一郎の助力を得て、1957年(昭和32年)から日本短波放送の解説者となる。ラジオ出演で知名度が上がったのをきっかけに、『ホースニュース・馬』を発行するホースニュース社と予想家契約を結ぶ。1961年(昭和36年)9月3日、同紙上で予想家としては初となるパーフェクト予想を達成。たまたま同席していた『週刊読売』の記者がこのことを「競馬の神様のご請託」と題うって記事にし、それに『週刊文春』などほかの雑誌が追従、予想家としての知名度は飛躍的に向上した。しかし、パーフェクト予想達成後に予想を外すことを恐れるあまり無難な予想しかできなくなり、極度のスランプに陥ってしまう。本人の述懐によると、このスランプから完全に脱したのは『勝馬』『ダービーニュース』を経て『ケイシュウNEWS』の予想家となった1969年(昭和44年)以降のことであったという。競馬評論家としては、予想といえば馬そのものとその関係者からもたらされる情報だけが対象であった時代に、レースの「展開」をファクターとして取り入れた。また、ギャンブルとしての競馬ではなく「動物の馬」が好きでこの業界に入ったこともあってか、馬の体型を一目見ただけで他の予想家や競馬記者が気づかなかった体調や故障、先天的障害を言い当てることもあった。実況者としては、1983年(昭和58年)の第3回ジャパンカップのとき「(キョウエイ)プロミス!プロミス!」、1984年(昭和59年)の菊花賞のとき「(ゴールド)ウェイ!!」、1990年(平成2年)の第35回有馬記念のとき「(メジロ)ライアン! ライアン!」とレース中に叫ぶ声が実況に被さってしまうこともあった。「ライアン」についてはレース翌日の『笑っていいとも!イブ特大号』で明石家さんまが話題にし、これ以降大川は競馬以外のバラエティ番組にも出演するようになった。これにより若いファンからマスコット的な人気を博すようになり、大川をモデルにした「おしゃべりケーちゃん」人形も制作された。1994年(平成6年)、『ケイシュウNEWS』を去り、フジテレビ『スーパー競馬』の解説者・日刊スポーツ専属評論家としての活動に軸を移す。晩年は「21世紀初めての競馬を見ることが目標」とたびたび口にしていたが、1999年(平成11年)12月15日、美浦トレーニングセンターでの調教取材を終え、ゴルフを楽しんだあと、寿司屋で会食後に店内で倒れて茨城県稲敷郡阿見町の東京医科大学霞ケ浦病院に入院。12月21日午前9時15分、高血圧性脳出血のため死去。享年71。倒れてから意識を取り戻すことはなかったが、家族が競馬中継やGIのファンファーレを聞かせると脳波が強く反応したという。


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「競馬の神様」の愛称で親しまれた大川慶次郎。馬とその関係者からもたらされる情報で競馬予想がなされていた時代に、レースの「展開」をファクターとして取り入れた革新的な評論で、通算4度のパーフェクト予想を達成した。また、その特異なキャラクターと紫のハンチングにネクタイとブレザー姿が若年層にも支持され、明石家さんまやとんねるずの木梨憲武といったお笑い芸人にも愛された。亡くなる直前まで21世紀の競馬を見る事を願うも、その目で見ることは叶わなかった大川慶次郎の墓は、神奈川県川崎市の栗平浄苑にある。馬蹄形の墓には直筆による「大川慶次郎」の文字があり、双眼鏡型の線香入れ、東京競馬場の図面の土台、左右に「愛馬」の文字と生前の写真がはめ込まれたレリーフが設置されている。戒名は、「神さまに戒名なんか要らない」という家族の意向により無しとなっている。

by oku-taka | 2020-06-07 20:32 | 評論家・運動家 | Comments(0)