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諸橋轍次(1883~1982)

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諸橋 轍次(もろはし てつじ)

漢学者
1883年(明治16年)~1982年(昭和57年)

1883年(明治16年)、新潟県南蒲原郡庭月村(現在の三条市庭月)に生まれる。4歳の頃から父に従い「三字経」の素読を学び、13歳の頃には奥畑米峰の静修義塾に入り、以来3年間漢学を学んだ。1904年(明治37年)、東京高等師範学校(後の東京文理大学、東京教育大学) 国語漢文科に入学。1908年(明治41年)、同研究科に進学。卒論の『詩経研究』は水準の高さから当時の学界を驚嘆させた。1910年(明治43年)の卒業後は、東京高等師範付属中学校教諭、東京高等師範学校教授、東京文理大教授を歴任。その間の1919年(大正8年)には、文部省より中国哲学及び中国文学研究のため2年間中国に留学。この時に満足できる辞書がなかったことが、後の『大漢和』の製作に繋がっていった。1921年(大正10年)、帰国。まもなく静嘉堂文庫長として漢籍の収集と整理に尽力した。1925年(大正14年)、大修館の鈴木一平が諸橋のもとを訪れ、巨大な漢和辞典の構想を持ちかける。1929年(昭和4年)、本格的な製作を開始し、以降教鞭をとるかたわら、親字数5万354、熟語数52万6300という『大漢和辭典』編纂の大事業を30余年にわたって進めた。1943年(昭和18年)、第1巻が完成。これにより翌年には朝日賞を受賞した。しかし、1945年(昭和20年)の東京大空襲で大修館が罹災。組み上がっていた印刷用の版が全て溶けてしまったため、終戦後に完成していた巻と校正刷りをもとに再スタートを切った。1946年(昭和21年)、長年の無理が祟って右目を失明。左目も明暗がやっとわかる程度にまで悪化する。同年、東宮職御用掛として皇太子(現在の明仁上皇)に「論語」を講義し、浩宮徳仁親王らの命名にもかかわった。1955年(昭和30年)に右目の開眼手術を受ける。1957年(昭和32年)、都留文科短期大学学長に就任。2年後に退任したが、1960年(昭和35年)の四年制大学への移行と同時に初代学長として就任。同職を4年にわたり務めた。同年、『大漢和辞典』全13巻が完成。この功績により、1965年(昭和35年)には文化勲章を受章した。1972年(昭和47年)、『中国古典名言事典』を刊行。1976年(昭和51年)、勲一等瑞宝章を受章。1982年(昭和57年)11月、20年をかけて大漢和の縮小版『広漢和辞典』全4巻を門弟と共著で完成させる。12月8日、老衰のため死去。享年99。


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全13巻にも及ぶ大漢和辞典を編纂した漢学者・諸橋轍次。空襲による原稿焼失、右目の失明と幾多の困難を乗り越え、「諸橋大漢和」と称されるまでの偉業を成し遂げた。 一方、教育者として、上皇の皇太子時代に漢学のご進講をし、浩宮さまご誕生の際はお名前選びの一人にもなった。「小径によらず大道を歩め」の信念で漢学の世界を歩み続けた諸橋轍次の墓は、神奈川県横浜市の総持寺と新潟県三条市の長禅寺にある。前者の墓には「諸橋家墓」とあり、左側に墓誌が建つ。

by oku-taka | 2020-06-07 18:14 | 学者・教育家 | Comments(0)