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マッスル北村(1960~2000)

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マッスル北村(マッスルきたむら)

ボディビルダー
1960年(昭和35年)~2000年(平成12年)

1960年(昭和35年)、東京都に生まれる。本名は、北村克己(きたむら かつみ)。幼少期はおとなしい子供であったが、小学校時代に「ラジオ組み立てキット」に夢中となり、ラジオにとどまらず電気に興味を持ち、家にある壊れたラジオを分解しては修理していた。それだけでは飽き足らずに、壊れたテレビを電気屋に譲ってもらい、それをまた分解して壊れた原因を探り、修理していたという。この時から、熱中したものにはとことん打ち込む姿勢が確立される。北村は「人は何の為に生まれてくるのか。僕は、せっかく生まれてきたのだから、何か目標を見つけて、自分の限界まで挑みたい。そうしないと時間がもったいない」という観念を持っており、その観念は成長するにつれて、どんどん強くなっていった。それゆえに様々な分野にチャレンジし、常軌を逸しているとも言える努力量で真剣に取り組んだ。それに伴い、数多くの挫折も経験した。高校生時代は自転車に熱中し、学校から帰宅すると自己鍛錬と称してトレーニングに明け暮れ、夜になると宮本武蔵や大山倍達などの偉人たちの本を始め、物理学、哲学、宗教、多岐にわたり読み漁り、「自分が何者であるか」を探求していた。その後、「大学には進学せず、競輪選手になりたい」と思い、部屋中を自転車雑誌や自転車のパーツで埋め尽くし、北村独自のトレーニングを毎日実施していた。高校2年生時には、夏休みの課題として自転車を題材にした研究をしており、その最後を飾る実験として、8月30日に自宅から200キロほどの距離にある奥多摩まで自転車で行くことを計画。アップダウンの激しい道を、ほとんど飲まず食わずの状態で走り続け、16時間ぶっ通しで約200kmほどの道中を漕ぎ続けた。休憩はしないというルールだったが、「目標までもうちょっとだし、余りにも喉が渇きすぎて、生命の危機だって思えるくらいだったので、仕方なく」漕ぐのを止めて、持ってきた牛乳一パックを、一気に飲みほした。しかし、その牛乳は、常温状態で16時間を経過していた為に、完全に腐っていた。牛乳を飲み干してすぐに体の異変が始まり、北村はその痛みで道中で意識を完全に失い、病院に運ばれた。その後、競輪選手を紹介され、一緒にトラックで走る機会を得たが、競輪選手の驚異的な走行技術を目のあたりにして、「僕は足元にも及ばない」と絶望し、悩んだ末に競輪選手の夢を諦める。 その後、ボクシングを行うが、裸眼視力が0.01ほどしかない上に平和を愛する性格が災いしてボクシングも諦める事になった。大学入試では、現役で防衛医科大学校と早稲田大学理工学部に合格したが、入学せずに浪人の道を選び、二浪して東京大学に入学する。東大に入学後、東京大学運動会ボディビルウェイトリフティング部の先輩と出会い、薦められるままに関東学生選手権に出場する。しかし、筋肉質とはいえプロボクサーを目指していた身長173cm、体重55kg程度の身体では、まるで大人の中に子供が混じっているような状態で、恥ずかしさと情けなさで泣きそうだったという。しばらくすると惨めさが消え、今度は激しい怒りが湧きあげてきた。これを機に、ボディビルを本格的にスタート。ボディビルに対する熱中ぶりは常軌を逸したもので、本人も「筋肉を大きくする為ならば何でもやった」と自負し、奇行とも思える行為さえも実施した。ボディビルの初期の段階では、家族と一緒にとる「普通の食事」以外に、卵を20-30個、牛乳を2-3リットル、さらに鯖の缶詰を3缶、加えてプロテインの粉末300gを毎日摂取。また、このような食事を消化吸収するために、消化剤を大量に摂取した。さらに筋肉のサイズアップに効果があるとして、鶏肉をミキサーにかけペースト状にしたものを大量に摂取した。その結果、ボディビルを始めて僅か10か月で40kgの体重増加に成功する。凄まじい執念が実り、わずか1年程で96kgまで増量、2年後の関東学生選手権を圧倒的実力で優勝。雪辱は果たしたが、既にボディビルへと傾倒していた彼は、社会人大会へとステップアップしていく。 そのボディビルへの熱情のために、大学の授業には全く出席せず、最終的に東京大学を中退。自分のやりたい事以外は全て余事になってしまう、極端な北村の努力主義が災いした。大学からドロップアウトし、将来を見据えない生活を過ごしていた北村は「僕は人の役に立ちたい。お医者さまになろう」と一念発起し、昔、使った参考書を引っ張り出して猛勉強を開始し、東京医科歯科大医学部に一発合格。入学するも、「やはり、僕はボディビルを極めたい」と考え、ボディビル一本に集中して取り組む為にまたもや中退する。高重量のダンベルで過酷なトレーニングに挑んだ結果、胸や腕の筋肉を断裂したこともあるが、それには怯まず、怪我が癒えるとすぐにトレーニングを再開した。また、ボディビルにおいては筋肉を目立たせるため、試合前の段階では皮下脂肪を減らすための減量を行うのが一般的とされているが、その減量をかなり過激な方法で行ったため、身体中の電解質が不足したり、低血糖症のために倒れ、救急車で病院に搬送されたことが何度もある。1985年(昭和60年)のアジア選手権においては、電車を乗り継いで山奥まで行き、そこから自宅までの100kmマラソンに挑戦。途中で足の爪がはがれ、シューズの中が血で溢れるほどだったが、気絶することなく計120kmを15時間かけて走り抜き、14kgの減量に成功。アジア選手権、ライトヘビー級のタイトルを手にした。1986年(昭和61年)7月20日、「ジャパン チャンピオンシップス」において、当時としては斬新であったカーボローディングを独学で身につけ、日本人最高のバルクとして謳われた石井直方を破って優勝。かねてから憧れであった「ミスターユニバース」の切符を手にする。しかし、当時JBBFドーピングコントロール委員長であった後藤紀久に、筋肉増強剤であるナンドロロン使用により失格とされてしまう。その時のトラブルが元でJBBFを脱会した。事実上、国内でのコンテストビルダーとしての道を閉ざされた北村は、自らの次のステージを切り開く為に芸能界へ足を踏み入れ、TV出演やセミナー、後に海外コンテストなどにも活躍の場を求めていくようになる。バラエティー番組『さんまのナンでもダービー』ではレギュラー出演を果たし、「ボディビルダーの筋肉は見せかけで使えない」という風潮を打破すべく番組内で大活躍した。2000年(平成12年)8月3日、ボディビルの世界選手権に参加するべく、脂肪を極限まで落とすために20kgの急な減量を行った結果、異常な低血糖状態となり、急性心不全を引き起こして死亡。享年39。亡くなる数日前にも倒れて救急車で運ばれており、この時は処置が間に合い、一命を取り留めていた。北村の身を心配した実妹が「めまいがしたら飴を舐めて。飴一個でいいから」と懇願するも「僕は、そんなわずかなカロリーすら摂取したくないんだ」と断る徹底ぶりであったという。


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なかやまきんに君、武井壮など、近年「筋肉タレント」というジャンルが確立されてきたが、その元祖ともいうべき人物がマッスル北村である。ボディビル界に突如として現れたカリスマであったが、ストイックが故に39歳という若さで亡くなってしまった。夢中になると己の体をも顧みないその性格が災いしてしまったのだが、その過酷なトレーニングとダイエットによって磨かれたボディは伝説として今なお語り継がれている。タレントとしては、ビートたけし、明石家さんま、島田紳助といった人気お笑いタレントの番組に起用され、バラエティーを生真面目にこなす人柄がタレントのみならず視聴者にも愛された。凄まじい探求心で自分を追い込み続けたマッスル北村の墓は、東京都八王子市の八王子霊園にある。洋型の墓には「北村家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「釋勝願」。
by oku-taka | 2020-05-25 09:24 | タレント | Comments(0)