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藤沢周平(1927~1997)

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藤沢 周平(ふじさわ しゅうへい)

作家
1927年(昭和2年)~1997年(平成9年)

1927年(昭和2年)、山形県東田川郡黄金村大字高坂字楯ノ下(現在の鶴岡市高坂)に生まれる。本名は、小菅 留治(こすげ とめじ)。 実家は農家で、自身も幼少期から家の手伝いを通して農作業に関わり、この経験から後年農村を舞台にした小説や農業をめぐる随筆を多く発表することになる。1934年(昭和9年)、青龍寺尋常高等小学校入学(在学中に黄金村国民学校に改称。現在の鶴岡市立黄金小学校)。小学校時代からあらゆる小説、雑誌の類を濫読し、登下校の最中にも書物を手放さなかった。また、6年生の頃には時代物の小説を書いた。1942年(昭和17年)、黄金村国民学校高等科を卒業し、山形県立鶴岡中学校(現在の鶴岡南高校)夜間部に入学。昼間は印刷会社や村役場書記補として働いた。1946年(昭和21年)に中学校を卒業後、山形師範学校(現在の山形大学)に進む。入学後はもっぱら文芸に親しみ、校内の同人雑誌『砕氷船』に参加した。二年生の夏と三年生の冬には二回肺炎になりかけ、二回目の時には意識不明の状態に陥っている。1949年(昭和24年)、山形師範学校を卒業。教員となって山形県西田川郡湯田川村立湯田川中学校(鶴岡市湯田川、現在は鶴岡市立鶴岡第四中学校へ統合)に赴任し、国語と社会を担当。優秀な教師として将来を嘱望され、教え子たちからも「体格がよく、スポーツマンで、色白で二枚目の素敵な先生」と慕われたが、1951年(昭和26年)3月の集団検診で当時不治の病とされた肺結核が発見され、休職を余儀なくされる。同年、『砕氷船』の後継誌である『プレリュウド』に参加。1952年(昭和27年)2月、東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)の篠田病院に入院し、保生園病院において右肺上葉切除の大手術を受けた。予後は順調で、篠田病院内の句会に参加し、静岡県の俳誌『海坂』(百合山羽公、相生垣瓜人主宰)に投稿をおこなうようになる。また、この時期に大いに読書に励み、ことに海外小説に親しみ、作家生活の素地を完成させた。1957年(昭和32年)、退院準備に入るものの思わしい就職先が見つからず、郷里で教員生活を送ることを断念。歴史研究家の大井篤の妹・晴の勧めにより練馬区貫井町に下宿して業界新聞に勤めはじめるも、倒産などが相次ぎ数紙を転々とする。1959年(昭和34年)、8歳年下の同郷者であった三浦悦子と結婚。1960年(昭和35年)、株式会社日本食品経済社に入社し、『日本食品加工新聞』の記者となる。記者としての仕事は、本人の性にあっており、精力的に取材執筆を行う。のちに同紙編集長に昇進し、ハム・ソーセージ業界について健筆を振るい、業界の健全化に尽力した。コラム「甘味辛味」をほとんど一人で執筆するかたわら、文学への情熱やみがたく、勤務のかたわらこつこつと小説を書きつづけていた。1963年(昭和38年)、長女・展子が生まれるも、同年10月に妻・悦子が急性の癌により28歳で急死。このことに強い衝撃を受け、やり場のない虚無感をなだめるために時代小説の筆を執るようになる。主に大衆的な「倶楽部雑誌」に短編を発表。藤沢作品の初期に特徴的な、救いのない暗い雰囲気とヒロインの悲劇には、妻の死が強く影響を与えていると思われる。翌年以降、毎年のようにオール讀物新人賞に投稿を始める。1965年(昭和40年)から藤沢周平のペンネームを使いはじめ、「藤沢」は悦子の実家のある地名(鶴岡市藤沢)から、「周」の字は悦子の親族の名から採られている。妻の没後は、郷里から呼び寄せた母、長女との三人暮らしとなり、目の悪い母を看病しつつ育児を行い、編集長の激務の傍ら5年独身で過ごしたが、1969年(昭和44年)に高澤和子と再婚。疲労困憊していた家事から解放され、週末は小説執筆に専念できるようになった。1971年(昭和46年)、 『溟い海』が第38回オール讀物新人賞を受賞。直木賞候補となり、翌年『暗殺の年輪』で第69回直木賞を受賞。新進の時代小説作家として認められるようになり、1974年(昭和49年)には日本食品経済社を退社して本格的な作家生活に入る。 初期は暗く重い作風であったが、1976年(昭和51年)刊行の『竹光始末』、同年連載の『用心棒日月抄』のあたりから作風が変り、綿密な描写と美しい抒情性のうえにユーモアの彩りが濃厚となってきた。1980年代前半、『時雨みち』『霜の朝』『龍を見た男』など、町人もので数多くの秀品を発表。一方で、獄医立花登の第一作『春秋の檻-獄医立花登手控え』、『隠し剣孤影抄』『隠し剣秋風抄』など、大衆小説の本道ともいうべき娯楽色の強いシリーズものを次々と生みだす。1984年(昭和59年)以降になると、こうしたシリーズもののほかに綿密な構成による長篇が登場し、江戸を舞台にした恋愛小説『海鳴り』、武家青春小説とお家騒動ものの系譜の集大成ともいえる『風の果て』など、物語性の強い傑作が相次いで発表。いずれも高い人気を得た。1986年(昭和61年)、『白き瓶』で第20回吉川英治文学賞を受賞。1989年(平成元年)、『市塵』で第40回芸術選奨文部大臣賞を受賞。1989年(平成元年) 、作家生活全体の功績に対して、第37回菊池寛賞を受賞。1995年(平成7年)、紫綬褒章を受章。この頃より、若いころの結核手術の際の輸血に際し罹患した肝炎で体調を崩すようになる。1996年(平成8年)には入退院を繰り返し、1997年(平成9年)1月26日、肝不全のため国立国際医療センターで死去。享年69。


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司馬遼太郎と並び、時代小説の分野で絶大な人気を誇る藤沢周平。自らが作り出した「海坂藩」を舞台に、武家もの、市井ものを中心として下級武士や庶民の哀歓を端正な文体で描き、その地位を確立した。俳優の児玉清は役者として壁にぶつかった時、藤沢文学を読んで「どうせ勝てないのならば美しく負けてやれ」と悟り、とても救われたということを生前語っていた。読者に大きな影響を与え、没後も幾度となく作品が映像化されている藤沢周平の墓は、東京都八王子市の八王子霊園にある。洋形の墓には「小菅家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「藤沢院周徳留信居士」。
by oku-taka | 2020-05-24 19:44 | 文学者 | Comments(0)