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堺屋太一(1935~2019)

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堺屋 太一(さかいや たいち)

作家
1935年(昭和10年)~2019年(平成31年)

1935年(昭和10年)、大阪市東区岡山町(現在の中央区玉造)に生まれる。本名は、池口 小太郎(いけぐち こたろう)。陸軍の師弟が多く通う大阪偕行社学院(現在の追手門学院小学校)に入学するが、1945年(昭和20年)3月の大阪大空襲で玉造の自宅が焼け、父の実家の奈良県御所市に転居し、名柄小学校に転入する。卒業後、名柄中学校に進むが、大学進学を考えると大阪の方が有利と考え、高校受験のため大阪市立昭和中学校に越境入学した。1951年(昭和26年)、大阪府立住吉高等学校に入学。在学中はボクシング部に所属し、モスキート級の大阪チャンピオンになった。社会科学研究会にも所属し、カール・マルクスの著書「資本論」など読みふけっていた。1954年(昭和29年)、高校卒業後、大学受験に失敗。滑り止めの慶應義塾大学法学部に入るが、すぐ退学。2年間の浪人生活の後、1956年(昭和31年)に東京大学に合格。浪人中に建築設計事務所でアルバイトと勉強をしており、建築への興味と一級建築士並みの知識があり、実際、学生会館の設計の学内コンペで1等賞も受賞したことから工学部建築学科に進もうとする。ただ、教養課程で他分野を学ぶうち、高校時代からの経済学への興味に気づき、経済学部へ転入し、大河内一男に師事。1960年(昭和35年)4月、通商産業省(現在の経済産業省)に入省。1962年(昭和37年)、通商白書で世界に先駆けて「水平分業論」を展開。また、日本での万博開催を提案し、1970年(昭和45年)の「大阪万博」の企画・実施に携わり、成功を収めた。その後、沖縄開発庁に出向。1975年(昭和50年)からの「沖縄海洋博」も担当する。同年、通産省に在職中でありながら、近未来の社会を描いた小説『油断!』で作家デビュー。1976年(昭和51年)、小説『団塊の世代』で、1940年代後半に日本で生まれた第一次ベビーブーム世代を「団塊の世代」と位置づけ、この世代が招く高齢化社会を予測して多方面に影響を与えた。その後、工業技術院研究開発官として3年ほど自然エネルギーに関わるサンシャイン計画に携わった後、1978年(昭和53年)に通産省を退官。退官後は本格的に執筆活動を開始し、工業社会の終焉と「知価社会」(情報化社会)の到来を予言した経済理論『知価革命 工業社会が終わる・知価社会が始まる』等の社会評論や、首都機能移転に関する『「新都」建設 これしかない日本の未来』をはじめとした経済評論のほか、NHK大河ドラマの原作となった『峠の群像』『秀吉』をはじめとする歴史小説も数多く執筆した。一方、日本テレビのドキュメンタリー番組『あすの世界と日本』でナビゲーターを務めたり、BSフジのビジネス対談番組『堺屋太一のビジネスリーダー』で司会を担当したり、テレビ朝日のドラマ『聖徳太子の超改革』の原案を手がけるなど、幅広く携わっている。 また、イベント・プロデューサーとして数々の博覧会を手掛け、御堂筋パレードの発案者ともなった。1990年(平成2年)に開催された花の万博では『ダイコク電機「名画の庭」』パビリオン総合プロデューサーを務め、世界の名画を転写して焼成した陶版画を展示紹介した。1992年(平成4年)のセビリア万博では日本館総合プロデューサーを務め、日本館内で安土城天守閣の最上部(5-6階)の原寸復元をメイン展示として紹介した。マスメディアでの活動も華々しく、新聞では、産経新聞の提言コラム「正論」欄に定期的に寄稿する「正論メンバー」で、1991年(平成3年)には第7回正論大賞を受賞。産経新聞でも1992年(平成4年)から『風と炎と』と題して21世紀を展望する長期大河コラムを連載した。1998年(平成10年)、小渕内閣に民間人閣僚として経済企画庁長官に就任。第2次森内閣まで務め、同時に総合交通対策担当大臣、新千年紀記念行事担当大臣、情報通信技術(IT)担当大臣なども兼任した。長官在任中には、従来の政府の景気判断よりも景況感の変化を迅速かつ的確に把握しやすくする為、タクシードライバーや居酒屋の店主など「街角の人」に直接話を聞く「景気ウォッチャー調査」を開始。また、インターネット博覧会を発案した。一方、2005年(平成17年)開催の愛知万博で最高顧問に就任。しかし、お祭り色の強い博覧会を考えた堺屋と長期的計画を望んだ地域の意図が合わず、2001年(平成13年)6月28日に辞任した。ただし、最高顧問辞職後も、顧問として愛知万博協会に関与した。2002年(平成14年)、東京大学先端科学技術研究センター客員教授に就任。2004年(平成16年)、早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授、同大学日本橋キャンパスインテンダント(学督)に就任。2008年(平成20年)、大阪府知事選挙の際に、国定浩一らとともに橋下徹を支援する団体として「橋下氏を知事にする勝手連」の設立に関わった。2009年(平成21年)にはみんなの党の母体となり、後にサポーター組織となった「国民運動体 日本の夜明け」のナビゲーターに就任した。2010年(平成22年)、大阪維新の会の支援団体である「経済人・大阪維新の会」の最高顧問に就任。また、2012年(平成24年)には大阪維新の会が政治家の育成を目的に設立した維新政治塾の名誉塾長に就任した。こうした観点から、堺屋は橋下徹及び大阪維新の会のブレーンとされていた。同年、旭日大綬章を受章。2013年(平成25年)、「成長戦略」担当の内閣官房参与に就任。首相・安倍晋三のブレーンを務め、2016年(平成28年)4月に一般社団法人「外国人雇用協議会」を設立して会長に就任すると、政府の諮問会議などで外国人労働者の受け入れ拡大を提案した。2019年(平成31年)1月、体調を崩して東京都内の病院に入院。2月8日20時19分、多臓器不全のため死去。享年83。没後、叙従三位を追贈された。


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近未来を予測した小説で多方面に影響を与えたベストセラー作家・堺屋太一。小説『油断!』で日本の石油備蓄が枯渇するというシミュレーションを立て、戦後ベビーブーム世代を描いた『団塊の世代』は時代を象徴する流行語にもなった。官僚経験を活かして作品を執筆していたからであろうか、書いた内容の多くが数年後に的中するという驚くべき力を持っており、「晩婚化」「郊外ニュータウンの高齢化」「アジア各国からの労働者の流入」「指定時間に希望商品が届くネット通販」「インターネット小説」「テレビ電話、デジタルカメラ、データ検索など多様な機能を備えた携帯端末」などを見事に言い当てた。その能力は、経済評論家や政界入りした際は何故か活かされなかったが…。鋭い先見性と明確なビジョンで日本に警鐘を鳴らし続けた堺屋太一の墓は、東京都文京区の伝通院にある。敷石を詰めた洋型の墓には「堺屋太一」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「玄徳院殿端誉史博太源大居士」。
by oku-taka | 2020-05-24 15:34 | 文学者 | Comments(0)