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海老一染太郎(1932~2002)

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海老一 染太郎(えびいち そめたろう)

太神楽曲芸師
1932年(昭和7年)~2002年(平成14年)

1932年(昭和7年)、落語家・三遊亭圓駒の長男として東京都新宿区に生まれる。本名は、村井 正秀(むらい まさひで)。少年時代は赤貧の生活で、豆カスやヒエの混ざった飯ですら、茶碗1杯を食べることができなかった。1945年(昭和20年)、「進駐軍に珍しい芸を見せれば、うまい物を食べられるぞ」と父親に勧められ、弟・染之助と共に傘の上でまりを回す芸で知られる伝統演芸・太神楽の2代目海老一海老蔵に入門。弟とコンビを組み、1946年(昭和21年)12月に新宿末広亭で「海老一勝太郎・小福」の名で初舞台を踏む。1949年(昭和24年)、「海老一染之助・染太郎」に改名。以来、染之助が曲芸を披露する傍らで軽快なテンポと独特な話術を展開する芸が十八番となり、“おめでとうございます”などとはやし立てる明るい芸風で子供からお年寄りまで幅広い人気を得た。一目見て分かる曲芸は海外でも人気を呼び、1960年(昭和35年)5月に旧ソ連文化省より招聘を受け旧ソビエト連邦にて初の海外公演。1965年(昭和40年)2月には 「お染ブラザーズ」の愛称でアメリカのABCテレビに出演。この他、ブラジル、東南アジアなどで公演し、オーストラリアのシドニーオペラハウス、スウェーデン国立人形劇場などにも招かれた。1973年(昭和48年)、放送演芸大賞曲芸部門賞を受賞。1985年(昭和60年)、浅草芸能大賞の第1回奨励賞を受賞。1988年(昭和63年)10月、フジテレビ『笑っていいとも!』にレギュラー出演。正月だけでなく通年でテレビで見られるようになり、若者にも認知が広がった。1989年(平成元年)3月 にはシングル『おめでとうございます!!』でCDデビューを果たす。以降も正月番組の顔としてお茶の間に親しまれていたが、2001年(平成13年)11月、胃癌が発覚し手術を受けた。退院して正月は活動を続けたが、2002年(平成14年)1月29日の舞台を最後に再入院。2月2日、胃癌のため東京都中野区の病院で死去。享年70。兄・染太郎の死後、弟の染之助はピンで活動を続けていたが、その染之助も2017年(平成29年)12月6日に死去した。


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「おめでとうございま〜す」の挨拶でお正月の演芸番組にはお馴染みの存在だった海老一染之助・染太郎。伊勢神宮が発祥と言われる伝統の太神楽を一代でお正月の風物詩に育て上げ、「いつもより余計に回しております」「弟は肉体労働、兄は頭脳労働。これでギャラは同じです」などの軽妙なギャグで会場を笑いに包んだ。特に兄の染太郎は、猛ダッシュでステージのセンターへと駆け出し、片膝つきながらポーズを取ったり、扇を広げて目玉をまん丸にカッと見開いたりして、「おめでとうございま~す」の一声をあげる。エンジン全開の迫力で観客の集中力を高め、難度の高い芸を行う弟を支えた。引き立て役に徹し、染之助と共にめでたさと幸せを振りまき続けた海老一染太郎の墓は、東京都新宿区の常敬寺にある。墓には「村井家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「釋染秀信士」。
by oku-taka | 2020-05-08 13:05 | 演芸人 | Comments(0)