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久世光彦(1935~2006)

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久世 光彦(くぜ てるひこ)

演出家
1935年(昭和10年)~2006年(平成18年)

1935年(昭和10年)、東京市杉並区阿佐谷に生まれる。小学校2年のとき、軍人だった父の転属により北海道札幌市へ移り、1945年(昭和20年)に両親の故郷・富山県富山市へ疎開。高校卒業まで富山で育つ。富山市立西田地方小学校、富山大学教育学部附属中学校、富山県立富山高等学校、東京大学文学部美学美術史学科を経て、1960年(昭和35年)にラジオ東京(現在のTBSHD)へ入社。アシスタント・ディレクターとして人気ドラマ『七人の孫』などの制作にかかわる。1970年(昭和45年)、『時間ですよ』の演出を担当。以降、脚本家・向田邦子とタッグを組み、同作のシリーズ化と『寺内貫太郎一家』、プロデューサーとして『ムー』を製作するなど、テレビ史に残る数多くのテレビドラマを手がけた。しかし、1979年(昭和54年)1月、『ムー一族』の打ち上げパーティーで出演していた樹木希林が、久世と「近松屋のともこ」役の女優のぐちともこが不倫関係にあり、このとき既にのぐちが妊娠8か月であった事を暴露。週刊誌に取り上げられるほどのスキャンダルに発展し、騒動となる。関係者の間では公然の秘密とされていたが、この場で久世は全てを認め、後に正式離婚し、のぐちと再婚。久世はこの騒動の影響もありTBSを退社した。その後、東映『夢一族 ザ・らいばる』を監督して芸能界復帰。1980年(昭和55年)には制作会社「カノックス」を設立したが、1981年(昭和56年)にポーカー賭博疑惑で警察から取り調べを受け謹慎となる。復帰後は、 ドラマの演出を主に手がける一方で、1987年(昭和62年)に出版されたエッセイ『昭和幻燈館』で作家デビュー。50歳を過ぎてのスタートにもかかわらず独自の耽美的な作風を確立し、作家活動を本格的に開始した。1990年(平成2年)、外部の演出家としては初めてNHKドラマ『振り向けば春』を担当。1992年(平成4年)、『花迷宮・上海からきた女』『女正月』の演出により芸術選奨文部大臣賞を受賞。1993年(平成5年)、小説『蝶とヒットラー』でドゥマゴ文学賞を受賞。以後、重心をエッセイから小説のほうに移していった。同年、筆に行き詰まった江戸川乱歩が失踪した現実の事件をもとに、作者が思い切り想像の羽を広げ虚実皮膜の間をつくりあげた『一九三四年冬――乱歩』で山本周五郎賞を受賞。同作は第111回直木賞の候補ともなった。また、作詞家としても活躍し、市川睦月(いちかわ・むつき)名義で第35回日本レコード大賞受賞曲である『無言坂』(歌唱:香西かおり)などを作詞。「市川」は、師匠と尊敬していた市川崑に由来する。1995年(平成7年)、『桃と林檎の物語』(歌唱:美山純子)で日本作詩大賞を受賞。1997年(平成9年)、『聖なる春』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。1998年(平成10年)、紫綬褒章を受章。同年、『逃げ水半次無用帖』で第120回直木賞候補となる。2001年(平成13年)、『蕭々館日録』で泉鏡花文学賞を受賞。晩年は軽い糖尿病を患っていたほか、副交感神経関係の手術を受け、脳梗塞も発症。回復の途上であったが、2006年(平成18年)3月2日、東京都世田谷区の自宅で、太巻き寿司を頬ばったまま台所の床に倒れているのを夫人が発見。救命救急センターに運ばれたものの、午前7時に虚血性心不全のため死去。享年70。死の直前まで仕事を抱えており、多くの関係者を驚かせた急死だった。


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「ドラマのTBS」黄金期を支えた名演出家、久世光彦。『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『ムー』など、コメディを織り交ぜたホームドラマを手がけてはヒットさせ、高視聴率プロデューサーとして名を馳せた。また、樹木希林、天地真理、浅田美代子らをスターダムに押し上げ、歌手として絶大な人気を誇っていた沢田研二を俳優として起用するなど、プロデュース能力にも長けていた。晩年は阿久悠とともに昭和の語り部として活躍していた久世光彦の墓は、東京都大田区のセントメモリアル西嶺浄苑にある。墓には「久世家」とあり、台石の下段に墓誌が刻む。戒名は「釈顕光」。

by oku-taka | 2020-05-03 00:50 | テレビ・ラジオ関係者 | Comments(0)