人気ブログランキング | 話題のタグを見る

与謝野馨(1938~2017)

与謝野馨(1938~2017)_f0368298_20394579.jpg


与謝野 馨(よさの かおる)

政治家
1938年(昭和13年)~2017年(平成29年)

1938年(昭和13年)、歌人の与謝野鉄幹・晶子夫妻の二男で外交官の与謝野秀・評論家の与謝野道子の長男として、東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に生まれる。本名は、與謝野 馨。生後すぐに父が北京に赴任し、0歳で北京に移る。4歳の頃、日本に帰国。港区立麻布小学校、麻布中学校と進学。父は戦時中にベルリンの日本大使館に勤務していたが、日本に残された家族の生活は困窮し、無賃乗車で母とともに交番へ連れて行かれたこともあったという。父がエジプト勤務になったときは、カイロ郊外・ヘリオポリスのイングリッシュスクールに編入学。この頃、自分が敗戦国の国民であることを強烈に感じ、日本の文化・経済を一流にしたいという想いが生まれた。その後、イギリスのオックスフォード大学への進学を目指し、一次試験までパスするが、考えを変えて日本に帰国。麻布高校に編入学し、平沼赳夫の同級生となる。その後、東大受験に失敗。駿台高等予備校(現在の駿台予備学校)で1年間の浪人を経て東京大学文科Ⅰ類に入学。1963年(昭和38年)、東京大学法学部第3類(政治コース)を卒業。母の知人・中曽根康弘の紹介で日本原子力発電に入社する。当初技術部に配属され、後に外交官となる今井隆吉係長の薫陶を受け、英語専門文献の翻訳なども手がけた。後に事務系に転じ、米国での資金調達や原子力保険といった金融業務に従事。その後、会社の命により、民社党の核拡散防止条約に関する訪欧調査団に原子力の専門家・通訳として同行。スイス、ユーゴスラビア、イギリス、イタリア、ドイツなどを訪問した。調査団メンバーは後に委員長となった佐々木良作を始め曽祢益、岡沢完治、渡辺朗。与謝野にとっては政治家と深く関わった第一歩であり、こうした民社党の面々とは政界入り後も親しい関係が続くことになる。佐々木と共にドイツ滞在中に中曽根康弘と邂逅、2人の政治家の食事のお供などをしたが、このことが政界入りの直接の契機となった。帰国後、同じ勉強会のメンバーであった渡邉恒雄を通じ秘書の誘いを受け、1968年(昭和43年)に日本原子力発電を退職し、中曽根の秘書となる。1972年(昭和47年)12月、第33回衆議院議員総選挙に旧東京都第1区から自由民主党公認で立候補するが落選。1976年(昭和51年)12月、第34回衆議院議員総選挙に東京1区から立候補し初当選。しかし、1979年(昭和54年)の第35回衆議院議員総選挙で、当時の大平正芳首相が打ち出した一般消費税による逆風を受け落選。1980年(昭和55年)、第36回衆議院議員総選挙で日本社会党委員長の飛鳥田一雄を抜きトップ当選し返り咲いた。以後、科学技術・通商産業関係を皮切りに、通商産業政務次官、自民党商工部会長、衆議院商工委員長などを歴任し、商工族、政策通として頭角を現す。1994年(平成6年)、自民党が政権復帰した村山内閣(自社さ連立政権)で文部大臣として初入閣。1996年(平成8年)、自民党単独内閣となった第2次橋本内閣では、梶山内閣官房長官の下で内閣官房副長官(政務)に就任。通例なら長官とともに総理総裁派閥から起用されるポストだが、梶山の篤い信頼のもとで、他派閥ながら橋本政権を中枢で支えた。 1998年(平成10年)、小渕内閣で通産大臣に就任。通産大臣でありながら、所管外(法務省管轄)の通信傍受法成立に力を注ぎ、『噂の眞相』などに「盗聴法成立の黒幕」と批判された。2000年(平成12年)6月、第42回衆議院議員総選挙で民主党の現職・海江田万里に敗れ、重複立候補していた比例代表東京ブロックでも復活せずに落選する。自民党は民主党に都市部を中心に議席を奪われ、「1区現象」と呼ばれる事態に陥ったが、閣僚経験者で総裁候補とも目されつつあった与謝野の落選は、1区現象の象徴として大きく報じられた。浪人時代はCS放送「朝日ニュースター」を始めマスメディアにしばしば登場、その頃誕生した小泉内閣の構造改革に当初は批判的であったが、徐々に方針転換して改革にも一定の理解を示すようになったほか、復活を期した2003年(平成15年)の総選挙前に派閥を離脱。これは当時所属派閥であった志帥会における亀井静香との権力抗争に敗北し、以前に亀井が所属していた清和政策研究会の小泉首相に接近する事情もあった。11月、第43回衆議院議員総選挙で選挙区では僅差で海江田に敗れたが、比例復活で3年ぶりの国政復帰を果たす。その後は党の金融調査会長を務め、2004年(平成16年)には自民党政調会長に就任し、小泉首相の進める郵政民営化に尽力。2005年(平成17年)9月に行われた第44回衆議院議員総選挙で、海江田に比例区での復活を許さないほどの圧倒的な勝利を収め、5年前の雪辱を果たした。同年、第3次小泉改造内閣で内閣府特命担当大臣(金融、経済財政政策)に就任。2006年(平成18年)、景気が少し持ち直してくると、消費者物価指数がマイナスにもかかわらず、量的緩和解除のゴーサインを出した。9月26日、安倍政権が発足。安倍とは通信傍受法の成立にあたって協力したほか、財界との勉強会である「四季の会」を通じて親しい関係であるため、内閣官房長官として与謝野を起用する構想があったとされるが、与謝野の官僚寄りの姿勢を警戒して、小泉が待ったをかけたという。結局、自民党税調会長(税制調査会会長)に就任したが、就任直後の10月に口内に痛みを覚えるなどしたため入院し、11月に税調会長を辞任して療養生活に入った。2007年(平成19年)1月初旬に退院した後も自宅療養を続け、4月13日の衆院本会議に出席し政治活動を再開。6月8日に発売された『文藝春秋』7月号に寄せた随筆「告知」にて、喉頭癌による入院だったことを公表した。8月27日発足の第1次安倍改造内閣において内閣官房長官(拉致問題担当大臣兼務)に就任。改造にあたって安倍は菅義偉の登用を模索したが、菅の事務所費問題から断念。その後は町村信孝の就任が確実視されていたが、最終的に与謝野を官房長官に起用した。9月12日、所信表明演説直後に突如安倍が辞任表明。その後安倍は体調不良で入院という事態となった。安倍が入院しても首相臨時代理は置かれなかったが、官房長官である与謝野が官邸を事実上仕切り、「与謝野官邸」と呼ばれた。同様に党務を仕切った幹事長の麻生とともに、麻生クーデター説のやり玉の一人に挙げられ、強く批判された(その後この説はデマと判明)。9月26日、福田康夫内閣発足に伴い官房長官・拉致担当相を退任した。福田政権では自民党税制調査会の小委員長に就任。政権の指南役として薬害肝炎問題の議員立法を提案し、解決に導くなど存在感を見せる。2008年(平成20年)2月20日、派閥横断型勉強会「正しいことを考え実行する会」(正しい議連)の活動再開を機に、同会に参加。8月2日、福田内閣の内閣改造(福田改造内閣)により内閣府特命担当大臣(経済財政政策、規制改革)に就任。経済財政担当相在任中、福田首相の辞任表明に伴う自民党総裁選挙に出馬。財政再建を訴えて2位につけ、麻生内閣では経済財政担当相に再任した。2009年(平成21年)2月17日、財務大臣兼金融担当大臣の中川昭一が辞任したことに伴い、その後任に指名されたため、与謝野一人で経済関連3閣僚を兼任することとなった。兼任は予算成立後に解かれる予定だったが、結局7月2日の閣僚補充で経済財政担当大臣に林芳正が任命されるまで続いた。同月、実施された東京都議選で自民党が敗れたことにより党内の麻生おろしが最高潮に達すると、重要閣僚でありながら麻生の自発的辞任を求める立場に立ったが、最終的に麻生内閣のもとでの衆議院解散に同意した。第45回衆議院議員総選挙では再び民主党の海江田万里に3度目の敗北を喫するも、比例代表で復活当選。9月4日と9月5日に開かれるG20財務相・中央銀行総裁会議は病気を理由に出席しない意向を示した。同年9月16日、麻生内閣総辞職により財務相・金融担当相を退任した。自民党下野後は衆議院予算委員会に所属。2010年(平成22年)2月12日の衆院予算委員会において、当時の鳩山由紀夫首相の偽装献金問題を追及し、鳩山を「平成の脱税王」と呼んだ。さらに、その弟で与謝野と当選同期の鳩山邦夫の「うちの兄貴はしょっちゅう母のところへ行って子分に配る金、子分を養成する金が必要だと言って金をもらっていた」という発言を引き合いに出し、鳩山を厳しく追及した。一方、文藝春秋(2010年4月号)で自民党執行部を批判する記事を書き、同年4月3日総裁の谷垣禎一と直接会談し、4月7日付で離党届を提出。会談で与謝野は谷垣に「自民党分裂とはとらないでください、大げさに感じないでください」と述べ、会談後も記者に「“自民党の分裂ではなく、一個人・与謝野馨が去ったということだと考えてほしい”と伝えた」と述べ、自身らの離党は自民党分裂ではないとした。4月10日、「反民主・非自民を貫く」と述べ、結成を予定する新党は反民主の党であるとの認識を示し、平沼赳夫、園田博之らとともに、新党「たちあがれ日本」の結党を正式に発表した。しかし、4月27日に自民党党紀委員会は政党票で当選した比例選出議員であることや新党結党首謀者として他の自民党国会議員(園田博之・藤井孝男・中川義雄)に対して新党結党のために自民党離党を促したことを反党行為として、賛成9票・反対3票で与謝野に対して除名処分が下った。12月、民主党政権からたちあがれ日本の連立政権参加の打診を受けたが、与謝野が賛成する中で他5人が反対し、党内で孤立。2011年(平成23年)1月13日、平沼代表に離党届を提出し、たちあがれ日本から離党した。1月14日、菅再改造内閣にて、内閣府特命担当大臣(経済財政政策、男女共同参画、少子化対策)に就任し、新設された社会保障と税の一体改革担当大臣も兼務した。1月19日に無所属議員として衆議院会派「民主党・無所属クラブ」に入会し、再び与党議員となった。与謝野の民主党政権参加は、除名処分にした自民党など野党から強く批判された。9月、野田内閣発足に伴い経済財政政策担当大臣を退任。同月5日、衆議院会派「民主党・無所属クラブ」を離脱。無所属議員となった。閣僚退任後に体調を崩し、2012年(平成24年)6月から約2ヶ月間入院。その間に咽頭がんの修復手術を受けたが、その影響で声を失い、筆談での会話を余儀なくされた。声のリハビリなども開始していたが早期の回復は困難なため、9月5日になって第46回衆議院議員総選挙への立候補をあきらめ、政界からの引退を表明した。水面下で自らの地盤である東京1区から立候補を予定していた新人候補の山田美樹を支援する目的で自民党への復党を打診したが、党からは「節操がなくなる」とされ、復党は認められなかった。2013年(平成25年)4月、「多年にわたり国会議員として議案審議の重責を果たすとともに、内閣府特命担当大臣等として国政の枢機に参画した」功労により、旭日大綬章を受章した。声を失った与謝野は、食道発声や電気式人工喉頭を試した後にがん研究会有明病院において気管食道シャント法と呼ばれる手術を受け、声を取り戻している。2017年(平成29年)4月30日、自民党の党紀委員会は、与謝野の近年の同党への貢献を評価して復党を了承。国会議員として自民党を除名された人物の復党は綿貫民輔に次いで2例目となった。同年5月21日午前6時、肺炎のため東京都内の病院で死去。享年78。5月24日に関係者が与謝野の死去を明らかにし、当初は死没日が遺族の意向で公表されなかったが、同年5月30日に開かれた自民党役員連絡会で二階俊博幹事長が21日と報告した。没後、正三位を追贈された。


与謝野馨(1938~2017)_f0368298_20394572.jpg

与謝野馨(1938~2017)_f0368298_20394657.jpg


政界きっての政策通とも言われた与謝野馨。自由民主党、たちあがれ日本、民主党と政界を渡り歩き、官房長官や財務相を歴任。政界の重鎮として君臨していたが、消費税の増税、福祉予算のカット、アメリカへの献金など、その政治活動には疑問を抱くものもあった。その一方で、4度の癌を経験。晩年には声までも失うことになった。念願だった自民党への復党が認められたのも、今から思えば先がもう長くない与謝野への配慮だったのかもしれない。与謝野馨の墓は、東京都港区の賢崇寺にある。川島なお美、奥田瑛二、三枝成彰といった「墓友」の集いで求めた墓には「与謝野家」とあり、右側面に墓誌が刻む。
by oku-taka | 2020-05-02 22:06 | 政治家・外交官 | Comments(0)