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四代目・中村雀右衛門(1920~2012)

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四代目 中村雀右衛門(なかむら じゃくえもん)

歌舞伎俳優
1920年(大正9年)~2012年(平成24年)

1920年(大正9年)、六代目大谷友右衛門の次男として東京に生まれる。本名は、青木 清治(あおき きよはる)。1927年(昭和2年)1月、東京市村座『幼字劇書初』の桜丸で大谷廣太郎を名乗り、初舞台を踏む。子役時代から才能を発揮し、立役役者として将来を嘱望された。しかし、1940年(昭和15年)に応召。1942年(昭和17年)には徴兵をうけて出征。南方戦線を転々とし、死線をさまよった末にスマトラで敗戦を迎えた。その間、1943年(昭和18年)に父が巡業先の鳥取で鳥取地震に遭い、崩壊した劇場の下敷きとなって圧死するという悲報を受ける。1946年(昭和21年)11月、帰国。翌年の地方公演から舞台に復帰し、『吉野山』の忠信、『手習子』などを演じた。また、七代目松本幸四郎の娘と結婚。その幸四郎の勧めで女形に転向することになり、一から再スタートを切った。その後、三越劇場で九代目市川海老蔵(後の十一代目市川團十郎)と演じた『毛谷村』のお園の演技が評判になり、『絵本太功記』の初菊、『浜松風』の小藤、『傾城反魂香』「吃又」のおとくなどを演じ、花形の女形として人気を集めた。1948年(昭和23年)3月、東京劇場『須磨都源平躑躅』(扇屋熊谷)の平敦盛、『戻駕』の禿たよりで七代目大谷友右衛門を襲名。その後は『藤十郎の恋』のお梶、『忠臣蔵』のおかる、『寺子屋』の戸浪、『大森彦七』の千早姫、『十六夜清心』の十六夜、『朝顔日記』の朝顔、『葛の葉』の葛の葉などを演じ、女形として着々と修業を重ねた。1950年(昭和25年)、映画監督の稲垣浩に乞われ、村上元三作の東宝映画『佐々木小次郎』に主演。同作は大ヒットし、これを機会に映画俳優へと転身。1954年(昭和29年)には新東宝に移籍し、二枚目スターとして数多くの映画に主演した。中村錦之助、市川雷蔵ら歌舞伎俳優の映画入りの道を拓くきっかけになったが、1955年(昭和30年)に映画界を事実上引退。歌舞伎界に復帰したが、東京には戻れず、関西歌舞伎に所属することになった。当時の関西歌舞伎は女形が不足していたため、すぐ立女形になった。関西歌舞伎の立役の内、市川寿海は新歌舞伎や二枚目物、十三代目片岡仁左衛門は義太夫狂言、三代目實川延若は父譲りの上方狂言と舞踊を得意にしていた。雀右衛門はそれぞれの相手役を演じることで一挙に芸域を広げた。また、関西の歌舞伎が低迷していたことから新しい観客獲得のため新派、新作、通し上演なども企画され、それらの舞台にも出演した。1957年(昭和32年)、延若と宝塚歌劇の白井鐵造作の歌舞伎レビュー『姐己』を演じた。1961年(昭和36年)には東京へ戻ったが、関西歌舞伎の大名跡・中村雀右衛門家に位牌養子として入り、1964年(昭和39年)9月、歌舞伎座『祇園祭礼信仰記・金閣寺』の雪姫、『妹背山御殿』のお三輪で四代目中村雀右衛門を襲名した。大谷友右衛門はいわゆる江戸の大名跡のひとつで、通常はそれ自体が止め名となるが、七代目は友右衛門襲名後に四代目雀右衛門を継いだ。これは、徴兵で入隊し、太平洋戦争従軍中に戦病死した、三代目雀右衛門の長男・中村景章(終戦後「五代目中村芝雀」を追贈)が、七代目友右衛門の無二の親友だった関係によるもの。終戦後、復員してきた懐かしい友右衛門の姿を見た景章の母は、そこに何か運命的なものを感じ、以後は友右衛門を我が子同然に可愛がった。そして、「息子が果たせなかった『雀右衛門』襲名は、ぜひ親友だったあなたにしてもらいたい」と、再三にわたって懇願。大谷友右衛門の明石屋と中村雀右衛門の京屋は、姻戚関係はおろか子弟関係の接点すらない、系統のまったく異なる家系で、友右衛門の雀右衛門襲名は、故人の無念の想いをその親友に託すという異色の養子縁組となった。 しかし、当時の東京には六代目中村歌右衛門、七代目尾上梅幸という二人の先輩の立女形がおり、雀右衛門は再び若女形の立場に戻り、二人が不在の時は十七代目中村勘三郎、松本白鸚、二代目尾上松緑らの相手を務め、一方ではその頃台頭してきた市川團十郎、尾上菊五郎らの相手役を演じるという便利使いをされた。しかし、結果的にはそれが幸いし、格調の高い芸風で女形の第一人者にまで上り詰めた。1980年(昭和55年)、「雀右衛門の会」を発足。第一回は『楊貴妃』『夕霧由縁月見』、二回目には『桜の森の満開の下』『傾城浅間嶽』『葵の上』と新作を演じ、五回目からは様々な道成寺舞踊を踊るといった具合に新しい役に積極的に挑戦した。1981年(昭和56年)、日本芸術院賞を受賞。1984年(昭和59年)、紫綬褒章を受章。1990年(平成2年)、勲四等旭日小綬章を受章。1991年(平成3年)、人間国宝に認定。2000年(平成12年)、勲三等瑞宝章を受章。2001年(平成13年)、文化功労者に選出。2004年(平成16年)、文化勲章を受章。2010年(平成22年)1月19日、歌舞伎座さよなら公演 壽初春大歌舞伎『春の寿』の女帝役で1日だけ出演したのが最後の舞台となった。2012年(平成24年)2月23日午後3時55分、肺炎のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去。享年91。没後、従三位を追贈された。


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研ぎ澄まされた芸と美しき品格ある姿で、女形の頂点を極めた四代目中村雀右衛門。子役時代から優れた演技を見せ、将来を嘱望されながらも、義父の勧めで女形に転向。着々と修業を重ねたものの、映画俳優の道へ。5年間の活動の後、歌舞伎界に戻るも、歌舞伎座公演を途中降板して映画撮影を優先させたことから居場所はなく、関西歌舞伎の門を叩く。後に関東へ戻れることになったが、先輩女形が幅を利かせていたことで一からキャリアを積み直すという辛酸を舐めさせられるなど、彼の役者人生はまさに流転であった。どんな逆境であってもめげることなく、芸道に精進し続けた四代目中村雀右衛門の墓は、東京都港区の青山霊園にある。洋型の墓には「青木家」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「清涯院殿梨堂瑞麗居士」。
by oku-taka | 2020-04-29 19:00 | 俳優・女優 | Comments(0)