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ジミー竹内(1930~2009)

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ジミー竹内(じみーたけうち)

ジャズ・ドラマー
1930年(昭和5年)~2009年(平成21年)

1930年(昭和5年)、東京府に生まれる。本名は、竹内 和三郎(たけうち わさぶろう)。山梨県大月中学校卒業後、予科練に入るが、東京市吹奏楽部青少年団の終了証を授与されたことで音楽に憧れを抱く。終戦に伴いJCハード、ジョー・モレノに師事。1948年(昭和23年)、横須賀でプロのドラマーとしてデビュー。進駐軍のベースキャンプや都内のクラブで活躍し、米国軍人達から天才ドラマーと言わしめた。1951年(昭和26年)、原信夫とシャープス&フラッツの初代ドラマーに就任。その後、ブルーコーツ、鈴木章治とリズム・エース、渡辺晋とシックス・ジョーズなどに参加。1950年代後半にはジョージ川口、白木秀雄とともに「三大ドラマー」と称され、戦後の日本ジャズ界を代表するドラマーとなった。ロカビリーブームでは、日劇のスタープレイヤーとなり、1958年(昭和33年)には渡辺プロダクション社長であった渡邊晋に名古屋で出会った伊藤シスターズ(後のザ・ピーナッツ)を紹介し、デビューへのきっかけを作った。その後、松本英彦コンボ、世良譲トリオなどに参加。ザ・ピーナッツ、弘田三枝子、伊東ゆかり、しばたはつみなどの日本歌謡界を代表するシンガーとの共演や、テディ・ウィンルソンなどの海外のプレーヤーとも数多く共演。1967年(昭和42年)には「ジミー・竹内&ジ・エキサイターズ」というバンドを結成し、『ドラム・ドラム・ドラム』という当時の流行であったグループ・サウンズの曲を鈴木邦彦のアレンジによってレコーディングしたアルバムを発表。以降、12年にわたってシリーズ化された。1970年(昭和45年)、来日したテディ・ウィルソンと共演。1974年(昭和49年)、 TBSテレビで放送開始した音楽番組『サウンド・イン"S"』に、世良譲トリオの一員としてレギュラー出演。華々しく活躍する一方、後進の指導にも尽力していたが、1999年(平成11年)に脳梗塞を発症。リハビリに取り組み、2001年(平成13年)9月15日に日本教育会館で行われたライブ「日本酒とジャズの夕べ」で復帰を果たした。しかし、2002年(平成14年)には幕張ベイタウンのホールにて「ジミー竹内プレ引退コンサート」の開催を表明。このコンサートで引退をする予定だったが、開催の約1ヶ月前に2度目の脳梗塞を患い、リハビリするも結果は芳しくなく、ジミー竹内を慕うプレイヤーだけでの演奏会となった。以降、闘病生活を余儀なくされたが、病床にありながらも常にスティックを手放さず、生涯一ドラマーを貫いた。2005年(平成17年)6月25日、「ジミー竹内 ドラム人生60年&75歳誕生祝いパーティー」に出演。公にドラムを叩いたのはこれが最後となった。2009年(平成21年)12月29日午前0時、肺炎のため東京都北区の病院で死去。享年79。


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戦後の日本ジャズ界を支えた名ドラマーの1人、ジミー竹内。若干14歳にしてプロデューして以降、歌謡界、ポップス界、ジャズ界とジャンルを越えて活躍。日劇のスタープレイヤーとしてロカビリーブームを支え、ザ・ピーナッツの発掘やジャッキー吉川等の後進の育成など、日本のポップスに多大な貢献を残した。晩年、病との闘いを強いられても、常にスティックを手放さなかったというジミー竹内の墓は、東京都大田区の池上本門寺にある。墓には「竹内家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「鼓楽院和響信士」。
by oku-taka | 2020-04-27 01:32 | 音楽家 | Comments(0)