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力道山 光浩(1924~1963)

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力道山 光浩(りきどうざん みつひろ)

プロレスラー
1924年(大正13年)~1963年(昭和38年)

1924年(大正13年)、日本統治時代の朝鮮・咸鏡南道洪原郡新豊里(現在の北朝鮮統治範囲)で朝鮮人の両親のもとに生まれる。出生名は、金 信洛(きん しんらく)。1940年(昭和15年)、朝鮮の六坮という明太の漁場の村で朝鮮相撲(シルム)の大会に出場していたところを、当地で刑事補をしていた長崎県大村市出身の小方寅一と相撲好きの百田已之助(二所ノ関部屋の後援幹事)がその体格と相撲素質に見惚れ、東京の二所ノ関部屋へ知らせた。その後、二所ノ関親方の玉のの海梅吉が朝鮮に渡って入門交渉。親方の玉の海は「国技の力士が(植民地の)朝鮮出身じゃまずかろう」と諭し、本名を百田 光浩に変更し、長崎県大村町(現在の大村市)出身という手筈が整えられて入門を果たした。同年5月場所で初土俵を踏み、1941年(昭和16年)1月場所に序ノ口、5月場所には序二段に昇進。1946年(昭和21年)11月場所に入幕を果たし、入幕2場所目の1947年(昭和22年)6月場所には前頭8枚目で9勝1敗の星をあげ、横綱羽黒山、大関前田山、同東富士ら3人と相星となり、この場所から設けられた優勝決定戦に出場した。1948年(昭和23年)5月場所では横綱照國とこの場所で優勝した大関東冨士を破り、さらに横綱前田山には取り直しの末、前田山の棄権によって不戦勝となって殊勲賞を受賞した。1949年(昭和24年)5月場所には関脇に昇進するが、1950年(昭和25年)9月場所前に突然自ら髷を切り廃業。民族の壁に阻まれて大関に昇進できなかったため廃業を決意したという説が良く語られるが、場所別成績の通り、関脇で勝ち越すのが精いっぱいであり、大関に昇進できるような星は残していない。力道山は酔うとあたりかまわず暴れることで周囲から疎んじられた。師匠の二所ノ関親方との間にはこのような素行への叱責を受けるだけでなく、金銭問題を含むトラブルを多く起こしていた。これが引退の引き金と考えられている。相撲界から引退時、百田の戸籍に長男として入籍した。その後、二所ノ関部屋の後援者だった新田新作が社長を務め、当時本牧にあった新田建設に資材部長として勤務。一方、ナイトクラブでの喧嘩が元でハワイ出身の日系人レスラーのハロルド坂田(トシ東郷)と知り合い、意気投合。1951年(昭和26年)9月30日から、アメリカのフリーメイソン系慈善団体「シュライン」が、当時日本を占領下に置いていた連合国軍への慰問と障害者のチャリティーを兼ねて、母国からボビー・ブランズら6人のレスラーを招きプロレスを開催。坂田もこの一員で、力道山は坂田の勧めで練習を見に行き、プロレス転向を決意。港区芝にあったシュライナーズ・クラブで指導を受けるようになった。1952年(昭和27年)2月、アメリカに渡り、ホノルルで日系人レスラー沖識名の下で猛特訓を受けた。翌年帰国して新田新作と興行師永田貞雄の助力を得て、日本プロレスを設立する。シャープ兄弟を招聘し、1954年(昭和29年)2月19日から全国を14連戦した初興行は、前年にテレビ放送が始まったことが追い風を受け、全国民の支持を受けて大ブームとなる。この興行でシャープ兄弟組と戦う時の力道山のタッグパートナーは、戦前戦中に日本柔道史上最強と謳われる木村政彦だった。しかし、木村は相手の技を受ける等のプロレス独特のスタイルに適応できず、シャープ兄弟との戦いでいつも負け役を担わされ、その木村を力道山が空手チョップで救いだし、相手レスラーを倒すという一連の展開に嫌気がさし、力道山との間に亀裂が入るようになった。後に木村は力道山とは袂を分かち、自身の団体で興行を打つものの、観客動員は芳しくなく、金銭的に窮地に陥った。木村は朝日新聞記者に「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだ。真剣勝負なら負けない」と挑戦を表明した。この一連の流れが「昭和の巌流島」といわれる試合に繋がっていった。1954年(昭和29年)12月22日、力道山は挑戦に応じ「相撲が勝つか柔道が勝つか」と騒がれたプロレス日本ヘビー級王座の決定戦が行われた。この試合は、力道山側によるレフェリー「ハロルド登喜」の選定、木村側のみ当身禁止という力道山側に有利なルールで行われた。しかし、木村側の証言によれば、本来この試合は、あくまで勝敗の決まったプロレスであり、東京をはじめ、大会場で両者勝敗を繰り返しながら全国を巡業する予定であったという。しかし、初戦で木村の急所蹴りに激怒した力道山が突如と殴りかかり、そのまま張り手と執拗な蹴りの連打で、戸惑ったままの木村政彦をそのままKO。倒れた木村は大量の血を吐き、マットには大きな血だまりができた。この通常のプロレスと違う顛末に観客たちも驚き会場は静まりかえったという。この力道山が激怒したとされる急所蹴りについて、幾つかのスポーツ紙においては力道山が木村の胴へ右足裏での飛び蹴りを浴びせたことが由来とする報道もあり、鮮明な映像がない当時の記録では、事の詳細は不明となっている。後日、力道山が木村が試合前に渡したと言われる「1試合目は引き分け」と書かれた念書をマスコミに公開し、この試合がいわゆる八百長崩れであったと証言する。後年、力道山と木村は仲介人を得て和解するものの、21世紀になる今日でも当時の試合舞台裏については謎が多く、様々な憶測や意見が出されることで、この試合をモチーフとし書かれた小説、エッセー等が存在する。1955年(昭和30年)、キングコングを破ってアジアヘビー級王座を獲得。この時期には、後援者であった新田氏による力道山追放計画など、力道山にとっていくつかの危機があった。特に厳しかったのは、第1次プロレスブームが去ったことで客が入らず、地方巡業では金の未払いもあった。そんななかで、1958年(昭和33年)にロスアンゼルスでルー・テーズを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。これによって下火になったプロレスブームが一気に火がついた。1959年(昭和34年)には第1回ワールド大リーグ戦を開催し優勝する。ワールド大リーグ戦はその後5年連続優勝。1962年(昭和37年)、フレッド・ブラッシーのNAWA世界王座に挑戦。奪取とみられたが、その後、クレームが付き、保留。新たに初代WWA世界ヘビー級王者と「追認」された。1963年(昭和38年)5月24日、東京体育館で行われたWWA世界ヘビー級選手権・ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64.0%を記録。これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。なお、この試合では、「四の字固めを完璧に決められた力道山が」ギブアップすることなく戦い続けたものの決着がつかず、「両者試合続行不可能と判断したレフェリーによって、引き分け」とされた。12月8日午後10時30分、遊興中の赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、暴力団住吉一家傘下の大日本興業構成員であった村田勝志と口論。酩酊するほど飲みながら女性と話していた力道山の横を暴力団員村田勝志が通り掛る際、力道山が「足を踏まれた」と、後ろから村田の襟首をつかんだ。村田は踏んでいなかったので、「踏んだ覚えはない」と反論するが、口論となり、「あんたみたいな図体の男がそんなところに立っていたらぶつかって当然」と言い放つ。この時、村田は懐中に手をやり、それを見て、刃物を取り出すのではないかと思った力道山が、「わかった。仲直りしよう」と言い出す。それに対し村田は「こんな事されて俺の立場がない」と仲直りを拒否。和解を諦めた力道山は村田の顎を拳で突き飛ばし、壁に激突した村田は顎がガクガクになった。さらに力道山は村田の上に馬乗りになり激しく殴打する。村田は「殺される」と思い、ナイフを抜いて下から左下腹部を刺した。ナイフの刃は根元まで刺さったが、出血は衣服の上に染み出ていなかったという。1日目は応急手当を受け帰宅。その後、村田の所属団体の長である小林楠扶がリキアパート内の力道山宅を謝罪に訪問。「申し訳ない。この責任は自分がとる」と頭を下げたところ、力道山も「うん、うん、わかったよ」と声をしぼり出すようにいったという。2日目に症状が悪化したため入院。外科医に山王病院へ来てもらい十数針縫う手術を受け成功した。山王病院は産科婦人科が中心の病院だが、力道山がここを選んだのは、親しい医者のいる病院にして話が表に出ないようしたためという。側近たちは、赤坂にある有名な外科病院である前田外科への入院を勧めたが、力道山は嫌がった。7日目に腹膜炎による腸閉塞を理由に午後2時30分再手術。これも成功したと報告されるが、その約6時間後の午後の9時50分頃に穿孔性化膿性腹膜炎のため死去。享年39。


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昭和が生んだ大スターの一人、力道山。東京体育館で行われたザ・デストロイヤー戦のテレビ中継が、平均視聴率64.0%という歴代視聴率4位にランクされるほどの人気を誇り、子供たちはブラウン管に映る彼を見て空手チョップを真似たものだった。性格的には粗暴で、感情の起伏が激しく、弟子であるジャイアント馬場は「人間として何一つ良いところの無い人でした」とコメントする程であった。そうした素行の悪さが死につながってしまったというのが、何とも悲しい話である。日本のプロレス界の礎を築いた功労者・力道山の墓は、東京都大田区の池上本門寺と長崎県大村市の長安寺に分骨されている。前者には二基の墓があり、右側の「大光院力道日源居士」と戒名が彫られた墓が力道山のものであり、墓域入口には「力道山之碑」、顕彰碑、力道山の像が建つ。

by oku-taka | 2020-04-27 00:16 | スポーツ | Comments(0)