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溝口健二(1898~1956)

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溝口 健二(みぞぐち けんじ)

映画監督
1898年(明治31年)~1956年(昭和31年)

1898年(明治31年)、東京市本郷区湯島新花町(現在の東京都文京区)に生まれる。父は大工で、日露戦争時に軍隊用雨合羽の製造をしていたが、戦争終結により事業は失敗。差押えを受けて、一家は浅草玉姫町に引っ越すことになった。1907年(明治40年)、同年開校の石浜小学校に入学。同級生には後年に仕事を共にする川口松太郎がいた。6年生の時、盛岡で薬剤師をしている親戚に預けられ、そこで小学校を卒業。1912年(大正元年)、東京に戻ったが、リウマチに罹り1年間闘病生活を送る。1913年(大正2年)、浴衣の図案屋に弟子入り。その後、浜町の模様絵師に弟子入り。1916年(大正5年)、赤坂溜池の葵橋洋画研究所に入り、洋画の基礎を学んだ。この時、研究所近くのローヤル館でジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーがオペラを上演しており、その背景画を研究所が引き受けていたので、溝口もそれを手伝ううちに浅草オペラに夢中になった。また、この頃から落語や講談などの江戸趣味に凝り始め、トルストイ、ゾラ、モーパッサンなどの外国文学や、尾崎紅葉、夏目漱石、泉鏡花、永井荷風らの本を読みあさっていた。1917年(大正6年)、姉の計らいで名古屋の陶器会社の図案部に入ることになるが、働く気にはなれず、入社翌日には東京に戻った。1918年(大正7年)、神戸又新日報社広告部の図案係に就職するが、僅か1年で退職した。1920年(大正9年)、友人の琵琶の弟子だった日活の俳優・富岡正と親しくなり、日活向島撮影所に出入りするうち、若山治の知遇を得て、同撮影所に入社。俳優志願だったが、小口忠の助監督に就くことになり、やがて田中栄三の助監督として、彼の代表作である『京屋襟店』などの作品を担当した。1923年(大正12年)2月、若山のオリジナル脚本による『愛に甦る日』で映画監督デビュー。しかし、貧乏生活の描写が余りにも写実的過ぎたため検閲で大幅にカットされ、やむなくつなぎで琵琶劇を入れて公開した。その後、漁村を舞台としたメロドラマ『敗残の唄は悲し』、ルパンを翻案した探偵劇『813』、表現主義風の『血と霊』など様々なジャンルの作品を作り、同年だけでも11本の監督作を発表。9月1日に発生した関東大震災以降は京都の日活大将軍撮影所に移り、『峠の唄』『大地は微笑む 第一篇』などを手がけた。1925年(大正14年)5月、痴話喧嘩のもつれから、同棲中の一条百合子に背中を剃刀で切られるという事件が起きる。丁度『赤い夕日に照らされて』の撮影中の出来事であり、この事件で作品の監督を降ろされ、しばらく謹慎処分となる。9月に撮影所へ復帰。1926年(大正15年)、『紙人形春の囁き』『狂恋の女師匠』などで下町情緒を描き、女性映画で独特の感覚を発揮していった。1927年(昭和2年)、ダンサーの嵯峨千枝子と結婚。1929年(昭和4年)、左翼思想の高揚に乗じて『都会交響楽』などの傾向映画を作り、リアリズム追求に邁進。1930年(昭和5年)、『唐人お吉』が大ヒットを記録。しかし、同年にパートトーキーで製作した『藤原義江のふるさと』は、技術的に拙く失敗作となった。1932年(昭和7年)、日活を辞めて新興キネマに入社。同社第1作は入江ぷろだくしょんと提携した『満蒙建国の黎明』で、満州で2カ月間ロケーション撮影を行った国策映画だったが、興行的には大失敗した。しかし、1933年(昭和8年)に泉鏡花作品を映画化した『瀧の白糸』がキネマ旬報ベストテン第2位にランクインされ、興行的にも成功。溝口のサイレント期の傑作となった。1934年(昭和9年)、『神風連』を最後に新興キネマを退社。日活多摩川撮影所で『愛憎峠』を撮るが、日活多摩川での作品はこの1作のみとなった。同年9月、日活を退社した永田雅一が設立した第一映画社に参加。山田五十鈴主演・泉鏡花原作の『折鶴お千』などを経て、1936年(昭和11年)に依田義賢とはじめてコンビを組んだ『浪華悲歌』、祇園を舞台に対称的な性格の芸者姉妹をリアリズムに徹して描いた『祇園の姉妹』を発表し、戦前の代表作となった。しかし、永田の新興キネマ入りによって第一映画社は解散。溝口も首脳部や他のスタッフと共に新興キネマに入った。新興キネマでは、山路ふみ子主演の『愛怨峡』など3本を撮り、その後に松竹下加茂撮影所へ移って、村松梢風原作の『残菊物語』、田中絹代を初めて自作に迎えた『浪花女』、川口松太郎原作の『芸道一代男』といった芸道ものを製作。この3作は「芸道三部作」と呼ばれ、長回しのショットを基調とした演出スタイルをここで完成させていった。1937年(昭和12年)、日本映画監督協会の2代目理事長に就任。1941年(昭和16年)、真山青果原作の『元禄忠臣蔵』前後編を製作。同作では厳密な時代考証を行ったり、松の廊下を原寸大に再現するなど完璧主義による映画製作が行われ、長い撮影期間と破格の費用をかけて完成された。作品は文部大臣特別賞を受けたものの、興行的には大失敗するという苦汁を嘗め、これを機に長いスランプ期を経験することになる。1946年(昭和21年)、田中絹代出演の民主主義的映画『女性の勝利』で映画界に復帰。しかし、不調が続き、1947年(昭和22年)に作った『女優須磨子の恋』も、競作になった『女優』(衣笠貞之助監督)に評価が集中し、大惨敗を喫した。1948年(昭和23年)、戦争で夫を亡くし敗戦後の生活苦から娼婦に堕していく女性をシビアに描いた『夜の女たち』で長きスランプから復調。その後、『雪夫人絵図』(舟橋聖一原作)、『お遊さま』(谷崎潤一郎原作)、『武蔵野夫人』(大岡昇平原作)などの文芸映画を作るが、いずれも低迷した。1952年(昭和27年)、井原西鶴の『好色一代女』を基に、溝口同様スランプ状態に遭っていた田中絹代主演で『西鶴一代女』を製作。当初国内ではキネマ旬報ベストテン第9位の評価だったが、ヴェネツィア国際映画祭に出品されるや海外の映画関係者から絶賛され、国際賞を受賞。海外で一躍注目され、国内でも溝口の評価が変り、長いスランプをようやく脱することが出来た。1953年(昭和28年)、上田秋成の原作を幽玄な美で表現した『雨月物語』が同映画祭でサン・マルコ銀獅子賞を獲得。1954年(昭和29年)の『山椒大夫』でも同映画祭サン・マルコ銀獅子賞を受賞。3年連続で同映画祭の入賞を果たすという快挙を成し遂げ、一躍国際的に認知される映画監督となった。1954年(昭和29年)、『近松物語』でブルーリボン賞監督賞を受賞。1955年(昭和30年)、大映の取締役の欠員1名の補充で衣笠貞之助と候補に挙がるが、衣笠が辞退したため、9月の株主総会で正式に大映取締役に就任、重役監督となった。11月3日には映画監督として初の紫綬褒章を受章。同年、カラー映画に取り組み、『楊貴妃』『新・平家物語』の歴史大作を製作した。1956年(昭和31年)、売春防止法成立前の吉原の女たちを描いた『赤線地帯』製作後、次回作『大阪物語』の準備中に体調を崩し、5月に京都府立病院の特別病棟1号室に入院。病名は単球性白血病で、本人には病名を知らせなかった。また、白血病は当時の医学では手の施しようがなかったため、そのまま回復に向かうことなく、同年8月24日午前1時55分に死去。享年58。没後、勲四等瑞宝章を追贈された。


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小津安二郎、黒澤明らと共に、国際的に高い評価を受けている映画監督・溝口健二。ヴェネツィア国際映画祭では作品が3年連続でサン・マルコ銀獅子賞を受賞し、ジャン=リュック・ゴダールをはじめ、エリック・ロメール、ベルナルド・ベルトルッチ、などヨーロッパの映画作家に多大な影響を与えた。とりわけゴダールは「好きな監督を3人挙げると?」の問いに「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」と答えるほど溝口を敬愛していた。完璧主義ゆえの妥協を許さない演出、長回しの手法を用いた撮影手法で生まれた溝口作品は、世界の映画人を虜にした。特に役者への演技指導の厳しさは有名で、気に入らない演技をした菅井一郎を「脳梅毒」呼びしたり、入江たか子への執拗な罵声など、今でも語り草となっている逸話は数多くある。没後半世紀を経てもなお人気が衰えない名監督の墓は、東京都大田区の本行寺と京都府左京区の満願寺に分骨されている。前者の墓には「溝口家之墓」とあり、左側面に墓誌が刻む。また、墓域の入口付近の右側には、歌人の吉井勇が捧げた悼歌、背面に「キネマ旬報ベストテン」の30回記念として溝口の代表作20作が記された「溝口健二記念碑」が建つ。

by oku-taka | 2020-04-25 22:23 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)