人気ブログランキング | 話題のタグを見る

花柳章太郎(1894~1965)

花柳章太郎(1894~1965)_f0368298_19072704.jpg

花柳 章太郎(はなやぎ しょうたろう)

俳優
1894年(明治27年)~1965年(昭和40年)

1894年(明治27年)、東京市日本橋区(現在の東京都中央区)に生まれる。本名は、青山 章太郎。1908年(明治41年)、湯島小学校在学中に新派の喜多村緑郎の弟子となり、翌年に本郷座『雪子夫人』の酒屋の小僧で初舞台を踏む。1913年(大正2年)、幹部に昇進。1915年(大正4年)、泉鏡花作『日本橋』の主役・お千世を勝ち取り、その美貌が話題となる。これが出世作となって、一躍新派の人気女形となる。1919年(大正8年)、6代目尾上菊五郎に市村座入りを誘われるが、断った。しかし、当時歌舞伎と新劇の間にあって退潮傾向にあった新派に焦燥感を覚えた花柳は、やがて「本流新派」からの独立をめざした試行錯誤を繰返すようになる。1921年(大正10年)、小堀誠や初代英太郎らと新劇座を結成。関東大震災後は一時関西で活躍し、1927年(昭和2年)に帰京。本拠地を浅草の松竹座に移して松竹新劇団を結成した。苦心の甲斐あって、1931年(昭和6年)に明治座で喜多村をはじめ伊井蓉峰や河合武雄らと共演した瀬戸英一作『二筋道 花柳巷談』が大成功をおさめ、これが新派の復興をもたらした。また、1933年(昭和8年)の『滝の白糸』では水芸を採り入れて好評を得る。1939年(昭和14年)には伊志井寛、柳永二郎、大矢市次郎、川口松太郎らとともに「新生新派」を結成。本流新派から完全な独立を果たした。また、溝口健二監督に乞われて映画『残菊物語』に主演し、悲劇の歌舞伎役者・二代目尾上菊之助を演じた。専門の女形ではなく立役の、それもこれまた専門ではない歌舞伎の役者を演じるという大変な苦労となったが、観客は白塗りの花柳章太郎を絶賛。花柳はこれで美形の二枚目としての新境地を開き、第1回文部大臣賞を受賞した。戦後間もない1945年(昭和20年)10月、劇団新生新派が興行を再開。1949年(昭和24年)1月に一度分裂して乱れるが、花柳がこれを収拾して1951年(昭和26年)12月に単一の劇団に合同。劇団新派となり、花柳は1952年(昭和27年)に座頭となって劇団を統率し、初代水谷八重子との名コンビによって次々に傑作を世に送りだした。1955年(昭和30年)、日本芸術院賞を受賞。1960年(昭和35年)、新派からは喜多村につぐ二人目の人間国宝に認定。1964年(昭和39年)、文化功労者に選出。同年4月には、演劇評論家などにより花柳の代表的な芝居を集めた「花柳十種」が選定された。1965年(昭和40年)の年明けから新橋演舞場で文化功労者選定を記念した舞台に立っていたが、1月5日の朝に気分が悪くなり東大病院に入院。肺炎だったが、同日夜半に心筋梗塞を起こして急死。享年70。4日夜の部の川口松太郎作『寒菊寒牡丹』が最後の舞台となった。没後、勲三等旭日中綬章を追贈された。


花柳章太郎(1894~1965)_f0368298_19072784.jpg

花柳章太郎(1894~1965)_f0368298_19072810.jpg

花柳章太郎(1894~1965)_f0368298_19072912.jpg

新派最後の名女形と言われ、初代水谷八重子と共に戦後の劇団新派を支えた花柳章太郎。芸域が広く、『明治一代女』のお梅、『大つごもり』のおみね、『鶴八鶴次郎』の鶴次郎、『婦系図』の早瀬主税、『歌行灯』の喜多八、『遊女夕霧』の夕霧、『佃の渡し』のおきよ等を当たり役とした。その確かな演技力と表現力は、演劇評論家などに「花柳十種」という代表的な芝居を選定されるほど、高く評価されたものだった。その美貌を生かして一時代を築いた名女形・花柳章太郎の墓は、東京都大田区の本行寺にある。墓には、戒名「彰功院殿花顔長安大居士」が刻まれ、墓域の入口に「花柳章太郎墓所」と川口松太郎による「花柳章太郎墓誌」が建つ。
by oku-taka | 2020-04-25 19:33 | 俳優・女優 | Comments(0)