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四代目・桂三木助(1957~2001)

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四代目・桂三木助(かつら みきすけ)

落語家
1957年(昭和32年)~2001年(平成13年)

1957年(昭和32年)、三代目桂三木助の長男として、東京都北区田端に生まれる。父が5代目柳家小さんと義兄弟の杯を交わすほどの大親友であったので、誰もが認める実力者であった小さんのようになれとの願いをこめて、小さんの本名と同じ「小林 盛夫」と命名された。父とは3歳で死別し、以降は母と2つ年上の姉のもとで育つ。大学在学中に落語家になることを決意。父はすでに亡くなっていたので、1977年(昭和52年)に小さんへ入門。前座名「柳家小太郎」の名を与えられた。新入り落語家である前座は、早朝から深夜にかけて師匠宅における労働(家事・掃除など)の義務があったが、三木助は昼過ぎに師匠宅に車で乗り付けるという重役出勤ぶりで、それもただ「出勤」しただけで、労働らしきものは全く行わなかった。師匠の小さんも特に注意せず、野放しにさせた。他の弟子たちも上下問わず「あの人(=三木助)は宇宙人みたいな人だから…」と呆れたまま放置していた。実質的な前座作業をしていないということは功罪両面があり、後のタレントとしての成功につながった。これは苦役を体験することからくる「暗さ」や「セコさ」とは縁がなく、御曹子ならではの屈託のないキャラクターがそのまま活かされた。反面、小さん一門ひいては落語家社会からの反感を買うこととなり、修行体験で古典落語を身体に沁み込ませなかったこと、それでも古典落語を無理にやろうとしていたので、専門家やファンからの評価が高くなかったこと、修行全般から逃げてきたことによって精神面が鍛えられなかったという致命的なデメリットもあった。1981年5月、二つ目に昇進し、柳家小きんに改名。春風亭小朝と共に次世代のホープとして注目され、御曹司、一流大学出身、寄席に外車で乗り付け、隣に女性をはべらせる…というイメージを隠さずにむしろ強調し、「落語界のシティーボーイ」というキャッチフレーズもついた。また、俳優やテレビリポーターなどとしても活躍した。1981年(昭和56年)5月、二つ目に昇進し、柳家小きんに改名。1984年(昭和59年)、NHK新人落語コンクールに出演。『湯屋番』を演じ、優秀賞を受賞する。1985年(昭和60年)、26人抜きで真打に昇進。4代目桂三木助を襲名する。以後、タレントとしての仕事をほぼなくし、落語家の仕事を中心にした。演芸番組を除いては自然とテレビから遠ざかり落語に専念するようになる。1993年(平成5年)秋、重度の胃潰瘍のために胃の4分の3を摘出する。同年、自分の師匠の孫にあたる弟弟子の柳家小緑の戦後史上最年少での真打昇進が決定となり、翌年には小緑改め柳家花緑の真打昇進披露興行が開催された。それらの影響を受けて落語に対する姿勢が変わり、春風亭小朝、林家こぶ平(後の9代目林家正蔵)、春風亭昇太らとともに江戸落語の若手発掘・自身も含めた中堅世代のスキルアップのために、数々の寄席や落語関連のイベントで奔走することとなる。9月には「三木助ひとり会スペシャル」という昼夜の独演会を開催し、昼の部には立川志の輔と昇太、夜の部には桂小米朝と立川談志を招くなど、主役である自分が食われかねないゲストとも共演した。また、三木助は元来上方の名跡である事から、桂米朝にも幾つか噺を教わり精進を重ねた。父がかつて芸術祭賞を受賞した芸術祭に対しても意欲を示し、1997年(平成9年)には演芸部門優秀賞を受賞した。しかし、前年の公演の前々日に事故にあって怪我をしたために公演を中止した。その際、マスコミが取り上げ、三木助本人は「夜中に飼い猫の餌を買いに行った帰りにピカっと光る物体を見たとたん、何かとぶつかって気を失った」 と証言したが、周囲からは「彼に冷たくされた女性が待ち伏せして襲った」説や「参加公演直前になって自信をなくして体調がおかしくなった」説、宇宙人来襲説、狂言説などが浮上したが、姉の小林茂子の話では自動車による当て逃げの被害にあったというのが真相であった。高座に復帰した際には自ら自虐的にこの事故についてまくらで触れ、これ以後自嘲的にお騒がせ噺家と名乗るなどスキャンダラスな存在になっていった。以降、三木助は奇行が目立つようになり、寄席も遅刻し、無断で欠席するようになった。たとえ寄席に出ても楽屋でも身だしなみにこだわらなくなり、寄席を出てから10時間近くも夜の街を徘徊した末に駅でコートを脱ぎ捨て、足を腫らして病院に運び込まれることもあった。また、周囲の人々に、父親の年まで生きられずに30代で亡くなるかもしれないことや、亡くなったらかつて一緒に遊び回っていた病死したり自殺したり変死した仲間と再会出来るということを口にするようになった。かねてから「三木助」の名に重圧を感じており、うつ病にかかっていたなどの憶測が流れたが、このような言動の背景には、胃の手術によって体に変調が表れやすくなったことや、長年の付き合いのあった友人に裏切られて金銭問題を抱えたことがある。2001年(平成13年)1月2日、開催された5代目小さんの誕生パーティを無断で欠席。翌1月3日午後1時25分頃、東京都北区田端の自宅ベランダで首をつっている状態で発見された。病院に救急搬送されたが、既に意識不明の重体で 午後2時5分に死亡が確認された。享年43。この時、遺書には「か 自分でも整理がつかないと同時に私の力のなさを痛感する」と書かれており、文字はかなり乱れていたという。冒頭の「か」の意味は明らかにされていない。


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「落語界のシティーボーイ」と呼ばれ、春風亭小朝と共に次世代のホープとして注目された四代目・桂三木助。俳優やテレビリポーターとしても活躍していたが、桂三木助襲名後は落語一本に絞っていった。しかし、これが彼を苦しめる結果となってしまい、名人と呼ばれた先代に追いつくべく自分を苦しめていった。もがき苦しみ、自ら命を断ってしまった桂三木助の墓は、東京都台東区の観音寺にある。墓には「先祖代々墓 小林」とあるが、墓誌はない。
by oku-taka | 2020-04-22 19:34 | 演芸人 | Comments(0)