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中村光夫(1911~1988)

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中村 光夫(なかむら みつお)

文芸評論家
1911年(明治44年)~1988年(昭和63年)

1911年(明治44年)、東京市下谷区練塀町(現在の東京都台東区秋葉原)に生まれる。本名は、木庭 一郎(こば いちろう)。1917年(大正6年)、本郷区の東京市追分尋常小学校に入学。その後、東京市誠之尋常小学校に転じ、東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)、第一高等学校文科丙類を経て、1931年(昭和6年)4月に東京帝国大学法学部へ入学。しかし、6月に退学。翌年4月に東京帝国大学文学部仏文学科に再入学。在学時に小林秀雄の知遇を得、小林の勧めで『文學界』に評論を発表。1935年(昭和10年)には文芸時評を連載して新進の文芸評論家として注目される。同年3月、東京帝国大学文学部仏文学科を卒業。この時期には、プロレタリア文学にも影響を受け、そうした習作も書いていた。1936年(昭和11年)、『文學界』に連載した「二葉亭四迷論」で第一回池谷信三郎賞を受賞。1938年(昭和13年)、フランス政府に招かれて渡仏。パリ大学に学ぶが、1939年(昭和14年)の第二次世界大戦勃発に伴って帰国。同年、吉田健一、西村孝次、山本健吉と同人誌『批評』を発行した。1940年(昭和15年)、外務省の嘱託となるが、翌年にこれを辞して筑摩書房顧問となる。戦後は鎌倉アカデミアで教鞭を執る傍ら、雑誌『展望』を創刊。次々と評論を発表し、近代リアリズムの正統論に立脚して、日本の近代文学の擬似性を批判し、戦後批評界の中心となった。1949年(昭和24年)、明治大学の教授に就任。同年、丹羽文雄を「風俗小説」と批判し、丹羽とリアリズムをめぐって論争する。1950年(昭和25年)、近代日本文学批判である『風俗小説論』を上梓。日本の私小説を厳しく批判し、島崎藤村の『破戒』のような本格小説が出たのに、田山花袋の『蒲団』のようなものが出て日本の小説がダメになったと主張した。その後も日本の近代文学の私小説性を西欧リアリズム小説との比較において批判・検討し、近代文学のひずみを追究。それは『谷崎潤一郎論』(1951~1952年)、『志賀直哉論』(1953年)、『佐藤春夫論』(1961年)という大家を否定する長編作家論によって結実させた。1951年(昭和26年)、カミュの『異邦人』をめぐって広津和郎と論争。広津は、『異邦人』の主人公の冷酷で無反省な行為を執拗に印象付けようとする作者の手法を、実験室の遊戯に過ぎないと批判。これに対し中村は、カミュこそわれわれが今まで見逃していた心理の暗所に照明を与えたとし、この実験小説の真価を解し得ない常識道徳の代弁者と広津を評した。1952年(昭和27年)、『二葉亭四迷論』で読売文学賞を受賞。1956年(昭和31年)、芥川賞選考委員となる。1957年(昭和32年)、最初の戯曲『人と狼』を発表し話題となる。1958年(昭和33年)、大岡昇平、福田恆存、三島由紀夫、吉田健一、吉川逸治との集い「鉢の木会」で、季刊同人誌『聲』を10号発行。1959年(昭和34年)、硬文学待望論「ふたたび政治小説を」を『中央公論』に発表して話題となる。1963年(昭和38年)、初の小説『「わが性の白書」』を発表。1964年(昭和39年)、『二葉亭四迷伝』で再び読売文学賞を受賞。1965年(昭和40年)、戯曲『汽笛一声』で三たび読売文学賞を受賞。1967年(昭和42年)、明治期の作家・長田秋濤を描いた『贋の偶像』で野間文芸賞を受賞。1967年(昭和42年)、日本芸術院賞を受賞。1974年(昭和49年)、日本ペンクラブ会長に就任。1982年(昭和57年)、文化功労者に選出。1988年(昭和63年)7月12日午後11時40分、肺炎のため神奈川県鎌倉市扇ヶ谷の自宅で死去。享年77。


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戦後批評界の中心的人物として活躍した中村光夫。志賀直哉や谷崎潤一郎といった大家に対しても物応じせず批判し、「私小説」「風俗小説」を徹底的に嫌った。一方、評論家でありながら、芥川賞の選考委員を30年間務め、第6代の日本ペンクラブ会長を歴任するなど、文壇においても存在感の大きさを示した。丹羽文雄や広津和郎らと論争や小説の大家への批判など、常に気を吐き続けた評論家の墓は、東京都豊島区の染井霊園にある。墓には「木庭家累代墓」とあり、左横に墓誌が建つ。
by oku-taka | 2020-04-17 19:01 | 評論家・運動家 | Comments(0)