人気ブログランキング | 話題のタグを見る

水原弘(1935~1978)

水原弘(1935~1978)_f0368298_18014461.jpg

水原 弘(みずはら ひろし)

歌手
1935年(昭和10年)~1978年(昭和53年)

1935年(昭和10年)、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)に生まれる。本名は、高和 正弘(たかわ まさひろ)。東京都立赤坂高等学校2年の時、文化放送主催の『素人ジャズ喉自慢』に出場し優勝。その後、収入を得るため、ハワイアン・バンドに入団。活動していたジャズ喫茶で渡邊美佐にスカウトされ、芸能界に入る。1957年(昭和32年)、ダニー飯田とパラダイス・キングに初代ヴォーカルとして参加。日劇の「ウエスターンカーニバル」で熱狂的な人気を浴びるが、翌年には脱退。 1958年(昭和33年)、水原弘とブルーソックスを結成。メンバーには森山加代子・ジェリー藤尾・ペドロ梅村らがいた。1959年(昭和34年)、東芝レコードに入社。「黒い花びら」(作詞:永六輔・作曲:中村八大)でレコードデビューすると、発売初年に30万枚、総合計57万枚という当時としては大ヒット曲となった。また、この年から始まった日本レコード大賞を受賞。新人デビュー年の大賞受賞は現在においても水原が唯一である。そして、第10回NHK紅白歌合戦に初出場。その後も3年連続で紅白に出場を果たす。独特のサビをきかせた低音の魅力と倦怠感をただよわせた歌のムードが世相とマッチし、続く『黒い落葉』『恋のカクテル』などヒット曲を次々に発表。独特の甘い“低音”で一世を風靡し、20代の女性たちに多大な人気を誇った。一方、『黒い花びら』『ドドンパ酔虎伝』『黒い三度笠』などの映画にも出演。現代劇作品の主役や時代劇作品の準主役級の役をこなし、多くの人気俳優と共演。共演した俳優から高い評価を得ている。東宝映画『皆殺しの歌、拳銃よさらば』で主役を演じた際には、仲代達矢に「この主役の演技ができるのは水原弘だけだ」と褒められたというエピソードが残っている。この頃から取り巻きを引き連れて夜の街を豪遊し、「業界屈指の酒豪」と呼ばれるようになった。親交の深かった勝新太郎に憧れ、「水代わりにレミーマルタン」との逸話が残るほど豪快な暮らしを送っていたが、日常的な酒浸りや莫大な金額のギャンブルに加えて、所謂高利貸しや闇金融からの多額の借金を抱え、不遇な時代を送る。1965年(昭和40年)3月10日、警視庁による「錦政会」(のちの稲川会の前身となった組織)に対する第一次頂上作戦が行われ、横浜市港北区綱島の温泉旅館「石水亭」が捜索を受ける。旅館経営者や賭博開帳関係者が逮捕される中、前年5月に行われた花札賭博に水原が関与、50万円を巻き上げられた事が発覚。事情聴取を受ける事態となる。この事で事実上の芸能界追放となり、ここから2年間は表舞台から遠ざかる一方で、借金返済に苦しめられる日々となる。1967年(昭和42年)、この当時マネージャーを務めた長良じゅんの奔走などにより、佳川ヨコとの競作で「君こそわが命」(作詞:川内康範・作曲:猪俣公章)をリリース。その歌唱力と売り上げで佳川を圧倒し大ヒット。“奇跡のカムバック”と称され、第9回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。第18回NHK紅白歌合戦へ5年ぶり・4回目の出場を果たす。その後も活躍は続けていたものの、相変わらず酒に溺れる日々は続き、次第に病気がちになっていった。1970年(昭和45年)、アース製薬のエアゾール式殺虫剤『ハイアース』のテレビCMに由美かおるとともに出演。水原を起用した同商品のホーロー看板も造られ、全国津々浦々に設置された。カムバックから3年が経過したこの時期、再び放蕩三昧の生活に舞い戻る。サラ金から何千万もの借金をして豪遊生活を続けた結果、営業権を暴力団の金融業者に売買。この一件で長良じゅんとは決別となってしまった。膨れ上がる借金で取立人に追われながら、クラブ、キャバレーの地方営業や様々な仕事を昼夜を問わず、休む間もなくこなさざるを得なくなった。1977年(昭和52年)1月12日、巡業先の金沢市で体調不良を訴え緊急入院。すでにアルコール依存症からくる影響で肝臓は正常に機能しなくなっており、黄疸や腹水の症状も起こしていた。新宿の朝日生命成人病研究所附属病院に2月末まで入院加療し、一旦退院するが同年6月末まで自宅静養に専念する。同年7月から仕事に復帰したものの、アルコール性の急性肝炎から慢性肝炎に移行。肝硬変を発症しており、度々極度の貧血などの症状で倒れるなど、もはや極めて深刻な状況を迎えていた。しかし、かつて1億数千万とも言われた莫大な借金返済のため、水原は満身創痍で馬車馬のように全国を営業し続け、酒も手放すことはなかった。この最晩年期、服用していた薬の副作用で顔に吹き出物が目立つようになり、それを隠すように口髭をたくわえ始めていた。1978年(昭和53年)6月24日未明、北九州市小倉北区の宿泊先「ホテルニュー田川」(現在のホテルニュータガワ)の客室トイレで大量に吐血し、瀕死の状態だった処をホテルで食事をとっていて遅れたマネージャーに発見される。同市戸畑区の健和総合病院に救急搬送されるも、既に血液の1/3が失われていた。その後一時は意識が回復し、憔悴するマネージャーに「馬鹿野郎、俺は死なねーよ」と話しかけるなど小康状態を見せるが、既に内臓のあちこちから出血がみられ、実質的には手がつけられない状況だった。その後、再び意識不明の重体に陥り、吐血から11日後の7月5日午前7時29分、肝硬変の重症化による食道静脈瘤破裂のため死去。享年43。残った借金は当時の額で9000万円とも言われ、水原没後は長良じゅんが長年かけて返済をした。


水原弘(1935~1978)_f0368298_18014440.jpg

水原弘(1935~1978)_f0368298_18014565.jpg


第1回日本レコード大賞をデビュー曲で受賞し、その後も独特の甘い低音で一世を風靡した歌手・水原弘。確かな実力を持ちながらも、酒とギャンブルに溺れ、果ては地位や名声を失った破滅型のスターであった。何度も再起を図るが、豪遊を断ち切ることはできず、最期は大量吐血の末に絶命という壮絶な人生の幕引きを遂げた。まさに無頼派として太く短い生涯を送った水原弘の墓は、東京都港区の専福寺にある。墓には「高和家之墓」とあり、左側面に墓誌が刻む。戒名は「刻音院釋正弘居士」。
by oku-taka | 2020-04-11 18:23 | 音楽家 | Comments(0)