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木島則夫(1925~1990)

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木島 則夫(きじま のりお)

アナウンサー
1925年(大正14年)~1990年(平成2年)

1925年(大正14年)、東京都に生まれる。旧制横須賀中学(現在の神奈川県立横須賀高等学校)を経て、明治学院大学文学部英文科を卒業。1948年(昭和23年)、読売新聞社の採用試験を受け不合格となったが、NHKのアナウンサー採用試験で合格し入局。クイズ番組『危険信号』『生活の知恵』『街頭録音』などの司会を担当した。1964年(昭和39年)3月、NHKを退職。その直後の4月より、日本教育テレビ(後のNET、現在のテレビ朝日)と局契約アナウンサー(嘱託職)を結び、『木島則夫モーニングショー』の司会を担当。栗原玲児とコンビを組んで朝の時間帯の開拓に成功。「泣きの木島」と呼ばれて人気を集め、ワイドショーブームの火付け役となった。 1968年(昭和43年)3月、『モーニングショー』を降板。NETとの出演契約を解消し、日本テレビと新たに専属出演契約を締結。『NNNワイドニュース』を皮きりに、『あゝ戦友あゝ軍歌』、『木島則夫ハプニングショー』等の司会を担当した。1971年(昭和46年)、参院選に民社党公認で東京都選挙区から出馬。現職の改選議員がいなかった自由民主党が前警視総監の原文兵衛を擁立し、公明党も新人の黒柳明を擁立。日本社会党の木村禧八郎・日本共産党の野坂参三・無所属の市川房枝と強豪揃いの中選挙戦を戦い、木島は当選、木村・市川が落選の憂き目に遭った。議員としては、食品の不当表示、人工甘味料の追求を国会で行った。1977年(昭和52年)の参院選でも再選され、青年婦人対策委員長を務めた。三選を狙った1983年(昭和58年)の参院選では新自由クラブを脱党し、税金党で参院選に出た野末陳平と支持層が重なってしまい、落選。そのまま政界を退き、前立腺癌で闘病の日々を送る。1990年(平成2年)4月13日、癌のため死去。享年64。


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現在、『羽鳥慎一モーニングショー』『大下容子ワイド!スクランブル』と名前を冠したワイドショー番組が放送されているが、その元祖が『木島則夫モーニングショー』であった。その司会を務めていた木島則夫は、NHKから民放に移り、果ては政界に転身するなど、非常にアグレッシブなアナウンサーであった。彼の成功により、『小川宏ショー』『八木治郎ショー』といった番組が生まれ、高橋圭三や宮田輝など政界に打って出るアナウンサーが登場した。それまでのアナウンサーのイメージを大きく変えた木島則夫の墓は、東京都台東区の一乗寺にある。墓には 「南無阿弥陀仏 大僧正日道」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「陽香院清温日島居士」。

by oku-taka | 2020-04-09 20:43 | テレビ・ラジオ関係者 | Comments(0)