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ドナルド・キーン(1922~2019)

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ドナルド・キーン

日本文学研究者
1922年(大正11年)~2019年(平成31年)

1922年(大正11年)、アメリカ合衆国・ニューヨーク州ニューヨーク市に生まれる。9歳のときに父と共にヨーロッパを旅行し、このことがきっかけでフランス語など外国語の習得に強い興味を抱くようになる。その後、両親の離婚により母子家庭に育ち、経済的困難に遭遇したが、奨学金を受けつつ飛び級を繰り返し、1938年(昭和13年)に16歳でコロンビア大学文学部へ入学。同校では、マーク・ヴァン・ドーレンやライオネル・トリリングの薫陶を受ける。同じ頃、ヴァン・ドーレンの講義で中国人学生と親しくなり、そのことがきっかけで中国語、特に漢字の学習に惹かれるに至る。1940年(昭和15年)、厚さに比して安価だったというだけの理由で、タイムズスクエアで49セントで購入したアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』に感動。漢字への興味の延長線上で日本語を学び始めると共に、角田柳作のもとで日本思想史を学び、日本研究の道に入る。1942年(昭和17年)、コロンビア大学にて学士号を取得。コロンビア大学当時はフランス文学も研究していたが、ともに日本語を学習したポール・ブルームから、「フランスに比べて日本は研究者が少ない」という理由で日本を研究することを薦められたという。また、日米間の開戦に伴ってアメリカ海軍の日本語学校に入学し、長沼直兄の『標準日本語讀本』などで日本語教育の訓練を積んだのち情報士官として海軍に勤務。ハワイで米軍が入手した日本軍に関する書類の翻訳、日本兵の日記読解、日本兵捕虜の尋問や通訳などに従事した。その間、太平洋戦線のアッツ島・キスカ島作戦に参戦。1945年(昭和20年)5月には、沖縄攻略作戦に従軍。沖縄戦終了後、ハワイに戻ったが、終戦後に中国・青島で日本兵の戦犯調査の任務に就く。しかし、戦犯調査にいたたまれず、11月に除隊を申請。復員後はコロンビア大学に戻り、角田柳作のもとで1947年(昭和22年)に修士号を取得。同年、ハーヴァード大学に転じ、セルゲイ・エリセーエフの講義を受ける。1948年(昭和23年)から5年間ケンブリッジ大学に学び、同時に講師を務める。同校ではバートランド・ラッセルに気に入られ、飲み友達として交際した。このころ、E・M・フォースターやアーサー・ウェイリーとも交際。1949年(昭和24年)、コロンビア大学大学院東洋研究科博士課程を修了。1953年(昭和28年)、京都大学大学院に留学。京都市東山区今熊野の下宿にて永井道雄と知り合い、生涯の友となり、その後は永井の紹介で中央公論社社長の嶋中鵬二とも生涯の友となった。以来、嶋中を通して日本の著名な作家たちと出会う。1955年(昭和30年)、コロンビア大学の助教授となり、のちに教授に就任。その傍ら頻繁に日本を訪れ、『徒然草』『おくのほそ道』などの古典や現代作家の作品を英訳して海外に紹介した。日本に関する著作は、日本語のものが30点、英語のものもおよそ25点ほど出版され、近松門左衛門、松尾芭蕉、三島由紀夫など古典から現代文学まで研究対象の幅は広く、主に英語圏への日本文化の紹介・解説者として果たした役割も大きい。英語版の万葉集や19世紀日本文学、中国文学のアンソロジーの編纂にも関わり、日本文学に対する国際的評価を高めた。また、独自の日本文学論や日本の古典芸能の評論をまとめた著作も発表し、1976年(昭和51年)より日本語版、英語版で『日本文学史』(近世、近代・現代、古代・中世の三部構成)の刊行がなされた。ノーベル財団が公開したノーベル文学賞の選考資料(1960年代)においては、エドワード・G・サイデンステッカーとともに日本人文学者の選考に当たって参考意見を求められていたことが明らかになっている。1962年(昭和37年)、古典ならびに現代日本文学の翻訳による海外への紹介の功績により菊池寛賞を受賞。1969年(昭和44年)、『BUNRAKU』で国際出版文化大賞を受賞。1975年(昭和50年)、勲三等旭日中綬章を受章。1984年(昭和59年)、『百代の過客――日記に見る日本人』で読売文学賞と日本文学大賞を受賞。1986年(昭和61年)、コロンビア大学に自らの名を冠した「ドナルド・キーン日本文化センター」を設立。1993年(平成5年)、勲二等旭日重光章を受章。1999年(平成11年)、日本文学研究学生のための奨学金機構「ドナルド・キーン財団」を設立。2001年(平成13年)、『明治天皇』で毎日出版文化賞を受賞。2002年(平成14年)、文化功労者に選出。2008年(平成20年)、外国出身の学術研究家として初の文化勲章を受章。2011年(平成23年)、3月11日の東日本大震災を契機に、日本国籍を取得し日本に永住する意思を表明。9月1日には、永住のため来日し『家具などを全部処分して、やっと日本に来ることができて嬉しい。今日は曇っているが、雲の合間に日本の畑が見えて美しいと思った』と流暢な日本語で感慨を語った。日本国籍を取得した際、戸籍上の本名は片仮名表記の「キーン ドナルド」として登録した。また、日本国籍取得時の記者会見の席上、「人を笑わせる時に使います」と述べつつ、漢字で「鬼怒鳴門」と表記した名刺を披露した。この「鬼怒鳴門」は、鬼怒川と鳴門を組み合わせて作った当て字で、親交の深かった三島由紀夫が、文通時に書いて送ったものである。2012年(平成24年)11月17日、トーストマスターズ・インターナショナル日本支部(District76)は、「キーンさんの行動に対して、「日本国籍を取り余生を日本で過ごす」という『言葉』(コミュニケーション)と、日本に移住した『行動』(リーダーシップ)により、希望を失っていた日本人に深い感銘と勇気を与えた」という理由で、第一回コミュニケーション・リーダーシップ賞を贈った。2013年(平成25年)9月21日、菓子メーカー・ブルボンが、新潟県柏崎市にキーンの業績を紹介する記念館「ドナルド・キーン・センター柏崎」をオープンした。2018年(平成30年)3月のニューヨーク訪問後に体調を崩しがちになり、晩年は都内の病院で入退院を繰り返していた。2019年(平成31年)2月24日午前6時21分、心不全のため東京都台東区の病院で死去。享年96。


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古典から現代作家の作品まで、幅広く日本文学を海外に紹介し、海外の日本文化研究の基礎を築いた米国生まれの日本文化研究者、ドナルド・キーン。日本文学を、そして日本を日本人以上に愛し、古典や現代文学を通じて世界に日本の文化と文学を広めた。今日、川端康成や三島由紀夫が海外で高い評価を受けているのも、エドワード・G・サイデンステッカーとドナルド・キーンの功績あってのものである。東日本大震災後には日本国籍を取得し、日本に永住すると発表。「私の日本に対する信念を見せたい」というコメントを残し、昨年、日本人として96年の生涯に幕を閉じた。彼の墓は、長年住み慣れた東京都北区の無量寺にある。墓には、直筆による「キーン家の墓」とあり、「黄犬(キーン)」という言葉遊びから上台石に黄色の犬、養子となった浄瑠璃三味線奏者・キーン誠己の芸名「浅造」から「象」をキーン家の家紋として刻まれている。
by oku-taka | 2020-04-09 15:48 | 学者・教育家 | Comments(0)