2020年 04月 05日
菊島隆三(1914~1989)
1914年(大正3年)、織物問屋で次男として山梨県甲府市に生まれる。本名は、菊嶋 隆蔵。甲府商業高校を経て文化学院に進むもなじめず、1933年(昭和8年)に中退。1934年(昭和9年)、長兄が亡くなったので家業を継いだが、1941年(昭和16年)に戦時統制令のため廃業。府県線維統制会社の経理課長に転じ、戦時中は県繊維協会の社員として会計の仕事に従事した。帳簿を読むことが出来、この仕事で経済感覚を身につけた。一方、将校に殴られたことがあり、以来カーキ色の軍服を忌み嫌っていた。この反骨心が、後年の兵隊やくざの執筆に大きく影響している。型破りな兵隊を描く執筆が非常に愉快だったと、菊島は叙述している。1945年(昭和20年)7月、空襲で土蔵を除く全てを失ったことから、好きな演劇か映画の道で再起を図ることを決意。蔵を売って上京したと同時に、父の建てた蔵を売ってしまった負い目と、シナリオで身を立てる覚悟から「隆蔵」を「隆三」と改める。上京後、旧知の女優である花井蘭子を介して八住利雄にオリジナルのシナリオを読んでもらい、これがきっかけで八住に師事。八住の紹介で、1947年(昭和22年)に東宝撮影所の脚本部に入社する。1949年(昭和24年)、フリーとなり、黒澤明監督の『野良犬』で脚本家デビュー。この作品は、題材探しで警察署に張り付いていた菊島が刑事から偶然聞いた「拳銃を失くすやつがいて困る」という話が発端となり、誕生したものである。以降、黒澤明と多くコンビを組み、『醜聞』『蜘蛛巣城』『隠し砦の三悪人』『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』『赤ひげ』など共同シナリオに参加し、黒澤作品の脚本を執筆した。1950年(昭和25年)、『醜聞』の脱稿後にカリエスを患い、一年半もの長期間で寝たきりの生活を余儀なくされる。さらに最初の妻とも離婚、実弟の死など不幸が重なり、人生で最も辛い時期を過ごした。1959年(昭和34年)、黒澤が映画制作会社「黒澤プロダクション」を設立。菊島は取締役としてプロデュースなども務めた。1965年(昭和40年)、紫綬褒章を受章。1969年(昭和44年)、『トラ・トラ・トラ!』の黒澤監督降板事件の後、黒澤プロから離れる。菊島は黒澤プロの役員として降板前後の処理に奔走したが、黒澤自身からは深い恨みを買う結果となった。諸説あるが、黒澤を蚊帳の外に置き「黒澤が精神に異常を来たしたため降板する」と黒澤プロが発表したため、健常で(ノイローゼ気味だったという複数の証言あり)日本と同じように演出を行なっていた黒澤には寝耳に水で、菊島ら役員に「裏切られた」と受け取った説(監督降板による訴訟や莫大な違約金を黒澤プロが回避するため、やむをえない手段をとった)。ただし、この説も憶測の域を出ず、菊島は真相を語ることはなかった。1980年(昭和55年)、勲四等旭日小綬章を受章。晩年は日本大学芸術学部の教授として、シナリオの講義を行ない、後進の指導にあたっていた。1989年(平成元年)3月18日、肝臓癌のため入院先の目黒区の病院で死去。享年75。没後、遺言に従い、年間に発表されたすべての映像作品の脚本の中から、最も優れた作品を脚本家が選び、その作者を顕彰する「菊島隆三賞」が創設された。創設資金は菊島個人の遺産が寄付されたものであったが、2017年(平成29年)4月に賞の運営をしていたシナリオ作家協会より、菊島隆三賞の終了がアナウンスされ、19回の歴史に幕を降ろした。