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小国英雄(1904~1996)

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小国 英雄(おぐに ひでお)

脚本家
1904年(明治37年)~1996年(平成8年)

1904年(明治37年)、青森県八戸市に生まれる。 八戸中学時代に友人であった松下正寿(後に参議院議員、立教大学総長)の兄の影響で、武者小路実篤の作品に傾倒し、小説を実篤に送るなど文学に目覚めた。 実篤の進めで横浜のバプテスト神学校(後の関東学院大学)に入学。同時に実篤の弟子となり、新しき村にも参加する。「山繭」などの小説を執筆したが、1929年(昭和4年)に実篤の紹介で日活太秦撮影所に助監督として入社。その後、脚本部に転属し、1933年(昭和8年)に『モダンマダム行状記』で脚本家デビュー。主に阿部豊のもとで脚本を書き、特に喜劇のシナリオを多く書いた。この頃の代表作に『エノケンの法界坊』『エノケンの頑張り戦術』などがある。一時期、本城英太郎の名で原作・脚本を手がけた時期もあった。1939年(昭和14年)には東宝で監督業にも進出し、『ロッパ歌の都へ行く』『金語楼の親爺三重奏』を手がけたが、二作品で監督業を廃業し、脚本に専念した。その後、伏水修監督『支那の夜』、マキノ正博監督『昨日消えた男』などの作品も手がけた。戦後は五所平之助監督『煙突の見える場所』をはじめ、数多くの作品に参加。1952年(昭和27年)、黒澤明から新作『生きる』の脚本の要請を受ける。この作品は、死期迫るガン患者を深い人間愛で見つめた傑作として評価され、その年の映画賞をすべて独占するとともに、脚本家としての名を名にした。『生きる」をきっかけとし、それ以後、『七人の侍』『どん底』『赤ひげ』と、黒澤映画の全盛期に次々と制作された傑作のほとんどすべてに脚本家として参加し、日本映画史に燦然と輝く作品を支えた。黒澤明作品では、脚本の競作においてジャッジの役目を担っており、黒澤もその眼力の高さを買っていた。後にフリーランスとなり、1966年(昭和41年)にはTV番組制作会社C.A.Lの役員に就任した。晩年は京都で小国シナリオ塾を開き、後進のシナリオライター育成にも努めた。1990年(平成2年)、勲四等瑞宝章を受章。1996年(平成8年)2月5日、死去。享年91。


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東宝映画の黄金期を支えた名脚本家・小国英雄。生涯手掛けた映画は300本を数え、その大半が今も愛されている娯楽映画の傑作が多い。そして、黒澤明を世界的映画監督に押し上げた功績はとても大きい。中でも『生きる』において、主人公が途中で亡くなり、その葬儀がクライマックスになる展開を考えついたのは小国であると言われている。全盛期は 「日本一脚本料の高い脚本家」として知られていた小国英雄の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には、武者小路実篤による「小國家之墓」が刻まれている。墓誌はないが、背面には「昭和三十九年十一月 小國英雄 建之」とある。
by oku-taka | 2020-04-04 21:59 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)