人気ブログランキング | 話題のタグを見る

野田高悟(1893~1968)

野田高悟(1893~1968)_f0368298_21215578.jpg

野田 高梧(のだ こうご)

脚本家
1893年(明治26年)~1968年(昭和43年)

1893年(明治26年)、北海道函館市に生まれる。父は函館の税官吏であったが、1896年(明治29年)長崎税関長転任に伴い長崎に移住。1904年(明治37年)には父が突然官職を辞し、姉の縁で愛知県名古屋市に移り住む。幼少期は芝居好きの母の影響で、映画と芝居見物に明け暮れる。愛知一中(現在の愛知県立旭丘高等学校)在学中には、仲間と同人誌をつくり、「文章世界」などに投稿して何度も入選を果たした。1913年(大正2年)、早稲田大学英文科に入学。芝居好きは変わらず、市村座に通い続けた。大学卒業後は雑誌記者となり、「飛行少年」「活動画報」「活動倶楽部」「活動評論」などを転々とする。その傍ら、緑川春之助の名で映画批評を執筆。1921年(大正10年)、定収入を得るべく東京市役所市史編纂室に入所。1923年(大正12年)、松竹蒲田撮影所の脚本部にいた友人に誘われ、映画監督の野村芳亭と出会う。その後、試作シナリオ『櫛』を執筆。これが認められ、1924年(大正13年)に松竹蒲田撮影所へ入所。広津柳浪の『骨ぬすみ』の脚色が初仕事となった。1927年(昭和2年)、小津安二郎監督第一作『懺悔の刃』で脚本家デビュー。1928年(昭和3年)、松竹蒲田脚本研究所を開設。この頃、松竹お得意であった従来のメロドラマ調から脱却すべく、『足に触った幸運』、『東京の合唱』など、サラリーマンの生活感情に材を求めてその哀感を描き、小市民映画の分野を切り開く。1935年(昭和10年)、脚本部長に就任。1936年(昭和11年)、映画各社の脚本家が集い、シナリオライター協会を創立。初代会長に推された。1936年(昭和11年)、野村浩将監督と組んだ『愛染かつら』が空前の大ヒット。興行収入でも当時の記録を更新した。以後、大船に移った松竹撮影所でも現代劇の中心的脚本家として活躍し、小市民の生活を味わい深く描いたいわゆる「大船調」の代表的存在となる。その後も島津保次郎、五所平之助監督などの作品で数々の名作を生み出したが、1946年(昭和21年)に松竹の体制変更に伴い退社し、フリーとなった。同年、同人誌「シナリオ」に『シナリオ方法論』の連載を開始。1949年(昭和24年)、戦後の小津との第一作『晩春』を執筆。以降、13本連続で脚本を小津と執筆し、『麦秋』、『東京物語』といった名作を次々に発表。 中流家庭を舞台に親子の関係や人生の機微を描き、独自のローアングルの手法を磨き上げ、いわゆる"小津調"を確立し日本映画界を代表する巨匠となる小津の右腕として貢献した。『東京暮色』以降は長野県茅野市の蓼科高原にある野田家の山荘・雲呼荘に籠って脚本を執筆し、晩年の名作を生み出した。1960年(昭和35年)、紫綬褒章を受章。1961年(昭和36年)、芸術選奨文部大臣賞を受賞。1967年(昭和42年)、勲四等旭日小綬章を受章。1968年(昭和43年)9月23日午前5時20分、蓼科の山荘滞在中に心筋梗塞を起こし死去。享年74。


野田高悟(1893~1968)_f0368298_21215501.jpg

日本映画の黎明期から黄金期にかけ、名作を次々に生み出した野田高悟。特に小津安二郎の片腕として多くの世界的名作を生みだし、『晩春』『麦秋』『東京物語』からなる紀子三部作は今なお高く評価されている。「小津調」と言われた独特の小津映画の手法は、セリフを決めていた野田によるものであり、「小津調」の一部は「野田調」であるとも考えられるという評論がある程、小津と野田は二人で一つのゴールデンコンビであった。野田高悟の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「野田家之墓」とあり、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2020-03-29 21:50 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)