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賀原夏子(1921~1991)

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賀原 夏子(かはら なつこ)

女優
1921年(大正10年)~1991年(平成3年)

1921年(大正10年)、東京府東京市牛込区余丁町(現在の東京都新宿区余丁町)に生まれる。本名は、塚原 初子。東洋英和女学校小学部を経て、東洋英和女学校に進学。同級生に三枝佐枝子がおり、ともに新築地劇団の『土』を観て感銘を受け、二人で主演の山本安英を訪ねて教えを乞い、学芸会で演じた。1938年(昭和13年)、東洋英和女学校を卒業。創立間もない文学座の研究所に第1期生として入る。1939年(昭和14年)、『父と子』の女中役で初舞台を踏み、翌年に座員に昇格。田中澄江作『はるあき』では19歳で48歳の先生役を演じた。1943年(昭和18年)、文学座同期の岩本昇三と内輪の祝言をあげる。1945年(昭和20年)、東京大空襲の最中に初演を迎えた森本薫作『女の一生』で、杉村春子演じる布引けいの姑役をわずか24歳で演じる。戦後も『二十六番館』『マリウス』『島』などほとんどの作品で老け役を演じ、人のいいおばさん、ずる賢い老女、意地悪い姑といった役を得意とした。舞台の傍ら、1946年(昭和21年)の木下惠介監督『大曾根家の朝』で映画初出演し、その後は東宝を中心に各社の作品に脇役出演した。特に『流れる』『女の歴史』など、成瀬巳喜男監督作品の常連となった。1958年(昭和33年)、岸田国士賞を受賞。1963年(昭和38年)12月、上演予定されていた三島由紀夫の戯曲『喜びの琴』が、思想上の行き違いを理由に上演を中止され、それをきっかけに同座の幹部や座員が集団脱退した“喜びの琴事件”を機に文学座を退団。1964年(昭和39年)1月に岩田豊雄(獅子文六)、三島由紀夫を顧問にして矢代静一、青野平義、中村伸郎らとグループNLTを創立。『サド侯爵夫人』を上演して成功を収めるが、劇団内で分裂。1968年(昭和43年)、新生劇団NLTの主宰となり、主義・思想にとらわれる事なく「大人が素直に楽しめる知的娯楽としての演劇」を目指し、それまで日本ではほとんど上演されていなかった海外の上質な喜劇であるフランス・プールヴァール劇(フランス喜劇)の上演に意欲を燃やした。1969年(昭和44年)、『ロマノフとジュリエット』で演出家デビュー。1976年(昭和51年)には手がけた『ササフラスの枝にそよぐ風』で第31回芸術祭優秀賞を受賞した。女優としては、森繁久彌主演の『屋根の上のバイオリン弾き』でイエンテを演じ、第11回菊田一夫演劇賞特別賞を受賞。テレビドラマにも『これが青春だ』などの青春学園シリーズ、チャコちゃんシリーズなど多数に出演した。1982年(昭和57年)、劇団の本拠地として青野平義記念館を建設。1985年(昭和60年)、紫綬褒章を受章。晩年には卵巣癌が見つかるも、入院して亡くなる直前まで主演舞台に立ち続けていた。「初めて死ぬのに、この経験が役者として役に立たないのが口惜しい」という格言を残している。1991年(平成3年)2月20日、卵巣癌のため東京都港区の済生会中央病院で死去。享年70。没後、勲四等宝冠章を追贈された。


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戦前・戦中・戦後と芝居一筋に生きた女優・賀原夏子。『ダンプかあちゃん』の姑役、『3人家族』の性格がキツイ栗原小巻の母、『國語元年』の個性的な女中など、市井に暮らすおばちゃん役を演じさせたら右に出るものはいないくらい上手い役者だった。亡くなる一か月前まで劇団の主演女優として舞台に立ち続けた賀原夏子の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。土饅型の墓には「塚原家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。
by oku-taka | 2020-03-29 16:32 | 俳優・女優 | Comments(0)