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上原げんと(1914~1965)

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上原 げんと(うえはら げんと)

作曲家
1914年(大正3年)~1965年(昭和40年)

1914年(大正3年)、青森県西津軽郡木造町(現在のつがる市木造)に生まれる。本名は、上原 治左衛門。生家が蓄音機店だったことから、幼い頃より音楽になじみ、独学でギターと作曲を学ぶ。1934年(昭和9年)、上京。新聞配達、チンドン屋など職を転々とした。この頃、上野松坂屋の食堂に勤めていた佐々木辰男(後の岡晴夫)と出会い、歌手を夢見る彼と共に、1936年(昭和11年)から演歌師などをして東京の下町一帯を流して歩く。岡とは東京の6畳の部屋で共同生活をし、夜は流し、昼はそれぞれ歌と作曲の勉強をした。1938年(昭和13年)、銀座のキャバレー「クラウン」で出会った東海林太郎に勧められ、キングレコードのオーデションを受けて合格。1938年(昭和14年)2月、歌手の岡晴夫と組み、『国境の春』でデビューした。5月には『上海の花売娘』が大ヒットし、作曲家として認められる。その後も、『港シャンソン』『東京の花売娘』と、岡晴夫の黄金期を支える作曲家として数々の曲を作曲し、ゴールデンコンビとして一世を風靡する曲を連発した。1951年(昭和26年)、コロムビアレコードに移籍。美空ひばり、初代コロムビア・ローズ、島倉千代子などに曲を提供する傍ら、作詞家・石本美由起もコロムビアレコードに移籍させ、コンビでヒットを量産した。1955年(昭和30年)には、マーキュリーレコードで悪戦苦闘をしていた岡晴夫に声をかけ、コロムビアレコードに移籍させた後に『逢いたかったぜ』でカムバックさせた。その後もヒットメーカーとして活躍する一方、松山まさる(後の五木ひろし)等の後進の育成に力を注いでいたが、1965年(昭和40年)8月13日、避暑地に向かう車中で心筋梗塞を発症し急死。享年50。


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昭和のヒットメーカーの一人、上原げんと。彼が紡いだ旋律は口ずさみやすいメロディーが特徴で、初代コロムビア・ローズが歌った『東京のバス・ガール』は長い間はとバスの定番曲となり、美空ひばりの『港町十三番地』は森繁久彌が最も好むひばりソングとしてベストワンに挙げるなど、上原メロディーは聴衆者の心を掴むものがあった。中でも、親友・岡晴夫とのコンビは歌謡曲黎明期を支えるに貢献し、『東京の花売娘』『逢いたかったぜ』は今なお愛唱されている。50歳というあまりの突然の死となってしまった上原げんとの墓は、東京都八王子市の東京霊園にある。墓には、上原の戒名「麗音院釋紘人居士」と妻の戒名があり、右横に『東京の花売娘』の一小節目が刻まれた碑が建つ。

by oku-taka | 2020-03-22 22:58 | 音楽家 | Comments(0)