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桜井センリ(1926~2012)

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桜井 センリ(さくらい せんり)

コメディアン
1926年(大正15年)~2012年(平成24年)

1926年(大正15年)、日本人会の代表幹事であった父の赴任地、イギリス・ロンドンに生まれる。本名、桜井 千里。出生名は、桜井 ヘンリー。父は子どもに「外国でも通用する名前がいい」と、最初はヘンリーとつけたかったようだが、あてはまる漢字がなかった為、千里と名付けた。ちなみに兄はオリバー(織馬)、妹はクララ(久良々)である。また、公式プロフィール上では1930年(昭和5年)生まれとなっているが、これはクレージーキャッツの他のメンバーとバランスをとるためだといわれている(最年少の安田伸は1932年生まれ)。その結果、旧制中学の後輩である石橋エータロー、犬塚弘より年少ということになってしまっている。3歳までイギリス・ロンドンで育ち、日本に帰国後、千里と改名したとも言われるが、本名はもともと桜井千里だったとする資料もある。帰国後、西巣鴨第三尋常小学校に入学。4年生から東京音楽学校付属上野児童音楽学園へ通い、クラシックピアノを習う。暁星中学校を経て、早稲田大学第一政治経済学部に入学。大学2年のとき「サンバレー・スイング・バンド」というグループからピンチヒッターを頼まれ、ジャズピアニストとしての活動を開始。後に同グループに正式加入したが、大学を中退してからは様々なバンドを転々とする。1952年(昭和27年)、穐吉敏子が渡米してピアニストが不在になったゲイスターズに穐吉の後任として参加。その後、鈴木康允たちとトリオを組んでいたが、フランキー堺の誘いで鈴木と共にジャズバンド「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」に参加。当時メンバーであった植木等、谷啓と出会う。1年後にシティスリッカーズを去った後、三木鶏郎の冗談工房に加入し、三木雛郎の名で歌や作曲を指導。当時の歌の弟子に左とん平とアイリーン・フェイゲンがいる。1960年(昭和35年)、植木の紹介で、ジャズバンド「ハナ肇とクレイジー・キャッツ」に参加。結核のため療養中だった石橋エータローの穴を埋めるべく、約1年間、石橋の代役を務める。石橋復帰後は植木などから「脱退させるべき」との意見が出たが、「せっかく仲間になったんだから」とリーダーであるハナ肇が他のメンバーを説得し正式加入。石橋が脱退するまで、クレイジー・キャッツはピアニストが2人という変則的な形をとり、「連弾」というスタイルを生かしたコントも行うようになる。バラエティ番組『シャボン玉ホリデー』では、大柄な犬塚弘と組んだアクションが有名となる。作曲家としての活動歴があり、スリーファンキーズのシングル盤『ナカナカ見つからない』、弘田三枝子のシングル盤『明日をみつめて』の作曲を本名の桜井千里名義で担当している。また俳優としても活躍し、『なつかしい風来坊』(松竹)や『クレージー黄金作戦』(東宝)など多くの映画やテレビ番組などに出演している。特に、山田洋次の作品に度々重用され、『男はつらいよ』にも様々な役柄で登場した。舞台でもバイ・プレーヤーとして活躍する。一方、「キンチョール」のCMに出演した「センリ婆さん」のキャラクターも有名となり、このCMで桜井が言った「ルーチョンキ」という言葉は当時の流行語となった。生前の桜井はクラシック音楽やオペラにも造詣が深く、専門誌にしばしば原稿を執筆していた。また、演奏の感覚を忘れぬためにピアノに一時間向かうのを日課としていたという。2010年(平成22年)11月11日に行われた谷啓の「お別れの会」が、最後の公の場となった。2012年(平成24年)11月11日、近所の住人が新聞が取り込まれていないことを不審に思い、110番通報したところ、東京都新宿区の自宅で遺体で発見され、病気による『孤独死』として報道される。かつて元・宝塚歌劇団員だった女性と結婚しているが、のちに離婚している。その後は母親と2人暮らしだったが、母親を亡くしてからは独り暮らしの状態だった。持病など直接の死因は不明だが、1996年(平成8年)には狭心症を発症し入院。出演予定だった舞台を降板している。自宅で発見される直近では、電動車いすを使用して買物に出かける姿が目撃されていたと言う。享年86。


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「ハナ肇とクレイジー・キャッツ」のピアノ担当として、テレビ黄金時代にお茶の間で愛された桜井センリ。石橋エータローとのピアノ連打はあまりに有名だが、プリマドンナのような女装でオペラ歌手ばりのアリアを披露したことも忘れ難い。1977年(昭和52年)放送のNHK『ビッグショー』で披露した谷啓との木琴コントも実に見事だった。音楽の才能はさることながら、後に転身した俳優でも大いに活躍し、特に山田洋次監督作品には欠かせない名バイプレイヤーとして名を馳せた。飄々としながらもどこかインテリジェンス漂う雰囲気を身にまとっていた桜井センリの墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。洋型の墓には「櫻井家 / 佐藤家」とあり、妹の嫁ぎ先である佐藤家との合祀墓となっている。背面が櫻井家の墓誌となっており、そこに桜井センリの名前も刻まれている。
by oku-taka | 2020-03-20 14:54 | コメディアン | Comments(0)