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三代目・三遊亭歌笑(1916~1950)

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代目・三遊亭 歌笑(さんゆうてい かしょう)

落語家
1916年(大正5年)~1950年(昭和25年)

1916年(大正5年)、東京都西多摩郡五日市町小中野(現在のあきる野市小中野)に生まれる。本名は、高水 治男。五日市高等小学校卒業後、生家の製糸工場を手伝いながら五日市町青年学校の夜間に通う。当時からひょうきんなところがあり、いつも同級生や女工たちを笑わせていた。しかし、1936年(昭和11年)の兵隊検査で極度の斜視で弱視(ロービジョン)であることから丙種合格となり、さらにエラの張った顔で、子ども時代からよくからかわれた。そのことに失望して家出し、産まれてから一度も出ていなかった五日市の町を出る。縁者が五日市町戸倉におり、ラジオで聞いて落語家を志すきっかけとなった柳家金語楼の門を叩くも断られ、金語楼から6代目春風亭柳橋を紹介されるが、柳橋にも断られる。1937年(昭和12年)9月、3代目三遊亭金馬に入門し、三遊亭金平の名をもらう。楽屋内では「化け」と言われ続け、後年の人気をも頑として認めない空気があったという。1941年(昭和16年)3月、二つ目に昇進。かつて師匠が名乗った歌笑を襲名するが、寄席に出演するため、寄席に背を向けていた金馬門を離れ、2代目三遊亭円歌門に移る。これを機に新作落語に転じ、人形町末広(石原席亭)から認められ始めた。この頃には頭角を表し、周りから開催に反対もされた柳家小きん(後の5代目柳家小さん)、4代目柳亭痴楽との「二つ目」だけで開かれた三人会(大塚鈴本)を大入りにする。1944年(昭和19年)、召集されるも目が極度に悪かった為に短期間で除隊される。その後は落語界に復帰したが、空襲が酷くなり、寄席はどこも閉まり、人形町末広と神田の立花のみの活動を余儀なくされる。戦後は一足先に復興する銀座の風景を描いた『歌笑純情詩集』を発表。特異な風貌と、それに似合わぬ純情な所が、終戦直後の荒んだ世相に明るい笑いを提供する。1947年(昭和22年)10月に真打昇進。ラジオ出演をキッカケとして、日本劇場や国際劇場等を満員にするほど人気が沸騰し、元祖「爆笑王」、「笑いの水爆」と呼ばれて一世を風靡。共に若手三羽烏と呼ばれた4代目柳亭痴楽、9代目柳家小三治(後の5代目柳家小さん)ら同年代の若手落語家に多大な刺激を与えた他、4代目桂米丸や後に同じ昭和の「爆笑王」の名を拝命する初代林家三平といった駆け出しの落語家の大きな目標となっていた。1948年(昭和23年)、映画『音楽二十の扉』に出演。以降、『ホームラン狂時代』、『笑う地球に朝がくる』など映画でも活躍する。 落語家としても、『音楽風呂』、『わが生い立ちの記』、『豚の夫婦』と現代的な落語を次々に発表。高座は当時最高額で、1ヶ月に40日分もの仕事をこなし、3ヶ月先まで予定が埋まっているという売れっ子ぶりだった。そんな人気絶頂時の1950年(昭和25年)5月30日、雑誌「夫婦生活」の大宅壮一との対談が終わり、帰宅途中であった夕暮れの銀座松坂屋前の路上を横断中、アメリカ軍のジープに轢かれて事故死。先天性弱視が災いしたといわれる。享年32


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戦後その爆発的な人気から「爆笑王」「笑いの水爆」と呼ばれた三代目・三遊亭歌笑。リズミカルな話術と新しいセンスが盛り込まれた噺で一躍時の人となり、後に落語界をリードする後進に強い影響を与えた。日本劇場や国際劇場といった大劇場を一人で大入り満員させ、そのような落語家は後にも先にもいないと言われた歌笑。不慮の事故で夭折した彼の墓は、東京都あきる野市の玉林寺にある。生家の墓域である「高水家之墓」の左側にある「三遊亭歌笑之墓」がその墓であり、右横に墓誌が刻まれている。戒名は「三遊院純誉拈萃歌笑居士」。また、東京都荒川区の浄閑寺には、武者小路実篤による塚が設置されている。

by oku-taka | 2020-02-15 21:47 | 演芸人 | Comments(0)