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佐多稲子(1904~1998)

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佐多 稲子(さた いねこ)

作家
1904年(明治37年)~1998年(平成10年)

1904年(明治37年)、長崎県長崎市に生まれる。本名は、佐田 イネ。出生当時、両親は18歳の中学生と 15歳の女学生という学生だったため、戸籍上は複雑な経過をたどり、5歳のとき実父母の籍に養女として入籍した。母を結核で亡くした後、父が三菱造船所を退職したことを受け、1915年(大正4)に一家で上京。由緒ある家系であったが、度重なる父の蹉跌により貧窮のどん底に陥り、稲子も小学校を中退してキャラメル工場で働く。以後、中華そば屋、メリヤス工場などを転々とし、上野の不忍池にあった料理屋「清凌亭」の女中になったときは、芥川龍之介や菊池寛など著名な作家たちと知り合いになる。その後、丸善の店員になり、資産家の息子である慶應大学の学生と結婚するが、夫の親に反対され、二人で自殺を図る。未遂で終わったが、その後離婚をし、夫との子を生んで一人で育てる。こうした急激な境遇の変転と、最初の結婚・離婚の辛苦のため、一時厭世的になるが、女給として勤めた本郷のカフェー「紅緑」で雑誌『驢馬』の同人だった中野重治、堀辰雄らと知り合い、人生・文学両面に開眼させられる。その後、同人の一人で貯金局に勤めていた窪川鶴次郎と結婚。左翼運動に身を投じて、検挙の非道さを体験する。1928年(昭和3年)、『キャラメル工場から』を発表。作家生活に入り、以降も生活体験に基づくきめの細かい清新な作品を相次いで発表。プロレタリア文学の新しい作家として認められる。1929年(昭和4年)、カフェの女給経験を綴った『レストラン・洛陽』を発表し、川端康成に激賞された。雑誌『働く婦人』の編集にも携わり、創作活動と文化普及の運動ともに貢献した。1932年(昭和7年)、当時非合法であった日本共産党に入党。日本プロレタリア作家同盟婦人委員として活躍をするが、戦時下の国家体制のもとで思想的に後退し、プロレタリア文学運動が弾圧により停滞した。また、夫・窪川の不倫もあって、結婚生活にも破綻をきたす。この体験を基に、夫婦関係のありかたを見つめた『くれなゐ』を1936年(昭和11年)に発表し、長編作家としての力量を示した。しかし、戦争の激化とともに、権力との対抗の姿勢をつらぬくことが困難になり、時流に流されていくようになる。戦場への慰問にも加わり、時流に妥協した作品も執筆した。戦後、窪川と離婚し、筆名を佐多稲子とする。戦時中の行動が問われて新日本文学会の創立時に発起人にはならなかったが、当初より活躍した。また、婦人民主クラブの創立には、宮本百合子たちとともに努力し、戦後の民主化の運動に貢献。婦民の分裂後は多数派の「ふぇみん」側の代表を長らく務めた。しかし、戦後50年問題、日ソ共産党の関係悪化など日本共産党との関係には苦しみ、とりわけ部分的核実験禁止条約を巡っては、批准に反対していた同党に対し、野間宏らと批判を繰り返していたことから、最終的には除名されるにいたった。作家としては、戦前の経験や活動を描いた『私の東京地図』(1946年/昭和21年)があるが、『夜の記憶』(1955年/昭和30年)、『渓流』(1963年/昭和38年)、『塑像』(1966年/昭和41年)など、戦後の共産党とのいきさつを体験に即して描いた作品も多い。自身の体験に取材した作品以外にも、戦後の女性をめぐるさまざまな問題を作品として描いたものも多く、それらは婦人雑誌や週刊誌などに連載され、映画やテレビドラマにもなった。一方、社会的な活動にも積極的に参加し、松川事件の被告の救援にも活躍。最晩年までそうした関心は衰えず、社会的な発言も続けた。1962年(昭和37年)、『女の宿』で第2回女流文学賞を受賞。1972年(昭和47年)、『樹影』で第25回野間文芸賞を受賞。1976年(昭和51年)、『時に佇つ』で第3回川端康成文学賞を受賞。1983年(昭和58年)、『夏の栞』で第25回毎日芸術賞を受賞。同年には、長年の作家活動による現代文学への貢献により朝日賞を受賞した。1985年(昭和60年)、樋口一葉の『たけくらべ』の結末で美登利が変貌するのを、初潮が来たからだとする従来の定説に対して、娼婦としての水揚げがあったのではないかと書き、「たけくらべ論争」を引き起こした。1986年(昭和61年)、『月の宴』で第37回読売文学賞(随筆・紀行賞)を受賞。1998年(平成10年)10月12日、敗血症のため死去。享年94。


佐多稲子(1904~1998)_f0368298_21122456.jpg

激動の昭和史において、常に働く女性の目線で描き続けた作家・佐多稲子。その原点は、小学校を中退して働いたキャラメル工場にある。その後も、中華そば屋、メリヤス工場、料亭、カフェと職を転々とし、処女作『キャラメル工場から』を発表するまでに幾多の辛酸を舐めてきた。戦前はプロレタリア作家として活躍。宇野千代、吉屋信子、林芙美子らと共に人気女流作家と持て囃されたのもつかの間、共産党員として逮捕・入獄され、夫は不倫に走るなど、彼女の人生には「平安」という言葉などなかった。苦難と挫折の生涯を歩んだ佐多稲子の墓は、東京都八王子市の富士見台霊園にある。尊敬するモーパッサンの墓を手本に造られた彼女の墓には、直筆の「佐多稲子」の文字、開いた形の本に生没年が刻まれている。
by oku-taka | 2020-01-18 22:14 | 文学者 | Comments(0)