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井田誠一(1908~1993)

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井田 誠一(いだ せいいち)

作詞家
1908年(明治41年)~1993年(平成5年)

1908年(明治41年)、東京都八王子市に生まれる。1932年(昭和7年)、早稲田大学英文科を卒業。八王子中学校(現在の八王子学園八王子高等学校)の教師となる。1938年(昭和13年)、作詞家に転身し、ビクターの専属となるも、翌年に退社し再び教職に戻る。戦時中は日本語教師として中国大陸に渡るが、終戦によって1946年(昭和21年)に帰国。1946年(昭和21年)、井田が書いた『恋の風車』が末松和男・吉岡妙子の歌唱によりレコード化。これを機にビクターへと戻り、作詞家の活動に専念する。1949年(昭和24年)、戯曲『炎の朝』で第2回読売演劇大賞を受賞。1951年(昭和26年)、暁テル子が歌った『東京シューシャンボーイ』が初のヒット。以降、『水色のスーツケース』『東京ティティナ』『若いお巡りさん』などヒットを連発。また、ダイナ・ショワの『青いカナリア』、ハリー・ベラフォンテの『バナナ・ボート』といった海外のヒット曲の訳詞も担当した。1993年(平成5年)10月12日、東京都八王子市長房町の自宅にて死去。享年85。


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1950年代の歌謡界に多くのヒットを放った作詞家の井田誠一。佐伯孝夫、宮川哲夫と共に戦後のビクターを支え、暁テル子、雪村いづみ、曽根史郎らをスターダムに押し上げた。代表作『東京シューシャンボーイ』『若いお巡りさん』からわかるように、彼の詩は明るく口ずさみやすいのが特徴的であった。和田弘とマヒナ・スターズのオリジナルヒット第1号『泣かないで』においても、別れの歌でありながら「明日の晩も会えるじゃないか」と締めている。希望を持たせた流行歌を作り続けた作詞家の墓は、東京都八王子市の富士見台霊園にある。墓には「井田家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。

by oku-taka | 2020-01-01 22:15 | 音楽家 | Comments(0)