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海老原博幸(1940~1991)

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海老原 博幸(えびはら ひろゆき)

プロボクサー
1940年(昭和15年)~1991年(平成3年)

1940年(昭和15年)、埼玉県浦和市に生まれる。本名は、松田 博幸。まもなく東京都福生市に転居。高校時代は警察の世話になるほどの不良だったが、19歳の時に観た映画『傷だらけの栄光』に感動してボクシングを始める。アルバイトでお金を稼ぎたかった海老原は、「ボクシング教えます」と書いたアルバイト募集を出していた目黒のトンカツ屋に面接へ行く。いかつい顔の店主がじっと彼の体と足を見て「縄跳びしてみろ」と言い、何の意味があるのか判らなかったものの、店主の言うままにジャンプやダッシュを繰り返した。この店主は、豪傑で名高いライオン野口の高弟として野口ジムの四天王と呼ばれ、後に8人の世界チャンピオンを誕生させた金平正紀であった。当時、金平はボクサーを辞めてマネージャーとなったが、ヤクザにタカラれる毎日で嫌気がさし、「堅気になろう」とジムの後輩だった山神淳一を大番頭に「とんかつ屋」を開いたばかりであった。この海老原との出会いの後すぐに店を畳み、二人は菓子折りを手に方々のジムを借りては練習を始め、1959年(昭和34年)に馬小屋を改造したささやかなジムを設立した。これが協栄ボクシングジムの歴史の始まりとなった。9月20日、19歳でプロデビュー。1960年(昭和35年)には6連勝するも、12月24日の後楽園ジムナジアムにて原田政彦(後のファイティング原田)との東日本フライ級新人王決定戦で前半2度のダウンを奪われ、6R判定負け。初黒星を喫した。しかし、新人ながら6連勝という記録を出したことが話題となり、同じ階級のファイティング原田、青木勝利とともに「フライ級三羽烏」と呼ばれた。1961年(昭和36年)も次々と連勝記録を打ち立て、4月5日には当時無敗であった三羽烏のライバル・青木勝利と対戦し、2RKO勝ちをおさめた。その後も、後に日本スーパーバンタム級王者に就く全日本バンタム級新人王・太郎浦一(新和)と対戦し3RKO勝ち、ローマオリンピックボクシングバンタム級日本代表で、後に2度日本バンタム級王者に就く芳賀勝男との対戦では、10R判定勝ちをおさめた。天性のリズムと絶妙のタイミングから放たれる左ストレートは「カミソリ・パンチ」と称され、その強打を駆使し順調に勝利を重ねていく。12月31日、弥栄会館にて後のWBA世界フライ級、WBC世界同級王者で当時OBF東洋フライ級王者であるチャチャイ・ラエムファバーと対戦し、12R判定勝ち。この試合はチャチャイが計量に失敗し王座を剥奪され、海老原が勝利した場合に東洋王者となるルールとなったが、試合後にチャチャイ陣営が体重オーバーによる2オンスのグローブハンデを付けられた事に抗議し、タイトル獲得は無効となった。1963年(昭和38年)9月18日、東京都体育館にて世界フライ級王者ポーン・キングピッチに同級4位として挑戦。自慢の左で2度ダウンを奪い、1RKO勝ちで世界王座を獲得した。海老原の強打に足が痙攣したポーンは、立ち上がることができず10カウントを聞いた。1964年(昭和39年)1月23日、バンコクのラジャダムナン・スタジアムにて行われた初防衛戦となる前王者ポーン・キングピッチとのリターンマッチ。試合前に拳を痛め手数があまり出ない中、2Rに左をクリーンヒットさせポーンをグラつかせるが、後半ポーンの老練なボクシングに苦しみ、10Rには左目をバッティングで負傷。ポーンにペースを握られつつも最後まで堪え、前半ポイントを稼いだ海老原が優勢と思われたが、地元判定が災いし、判定負け(1-2)で王座から陥落した。そして、連勝記録も29でストップした。4月30日、ロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムにて後のWBC世界フライ級王者アラクラン・トーレスと対戦し、12R判定勝ち。1965年(昭和40年)1月3日、過去3度戦っているOBF東洋フライ級王者・中村剛と4度目の対戦をし、10R判定勝ち。5月7日、ロサンゼルスのロサンゼルス・メモリアル・コロシアムにてWBA世界フライ級1位として同級2位のアラクラン・トーレスと世界王座挑戦権をかけて再戦。1R早々ダウンを奪いペースを掴み、7Rには左ストレートから連打を浴びせて再びダウンを奪う。トーレスが立ちあがった所に追撃し通算3度目のダウンを奪い、7RTKO勝ちをおさめた。1966年(昭和41年)7月15日、ブエノスアイレスのルナ・パーク・スタジアムにてWBA・WBC世界フライ級王者オラシオ・アカバリョに同級1位として挑戦するも、試合前に痛めた左拳を4Rに骨折し、右手のみで追いかけ回したが及ばず15R判定負けとなった。1967年(昭和42年)4月10日、後の日本フライ級王者であるスピーディ早瀬と対戦。10R判定勝ち。8月12日、世界王座挑戦が決定していた田辺清が網膜剥離にて引退。ピンチヒッターとして再びオラシオ・アカバリョの世界王座に同級3位としてブエノスアイレスのルナ・パーク・スタジアムにて挑戦。序盤はリードするものの、6Rに左拳を再び骨折、後半アカバリョの反撃に見舞われ、またも15R判定負けとなった。1969年(昭和44年)3月30日、札幌中島スポーツセンターにてWBA世界フライ級2位として同級1位ホセ・セベリノと空位となっていたWBA世界フライ級王座を賭けて対戦。試合前、痛めた右拳に麻酔を打って試合に臨むが3Rに切れてしまった上、9Rには左拳も痛めるが、終始優勢に試合を進め、大差の15R判定勝ち。再度世界王座を獲得した。しかし、10月19日の大阪府立体育館にて同級2位のバーナベ・ビラカンポとの初防衛戦で、序盤は互角ながら3Rに公開スパーリングで負傷していた左肩を痛め、右手一本で戦い続けるも10R以降はダウン寸前に陥るほど一方的に攻められ、15R判定負けを喫し、またも初防衛に失敗した。なお、試合後に右拳も骨折していた事が判明した。この試合は当時トレーナーであったエディ・タウンゼントが「タオルを投げる事も考えたが、海老原が拒み続けたので投げられなかった。僕の中で観ていて一番辛い試合だった」と後に語っている。2度目の王座から陥落した海老原は、1970年(昭和45年)1月に引退。戦績は68戦62勝5敗1分であった。引退後はミニクラブやステーキハウス経営を経て、協栄ジムのトレーナーやテレビ東京の解説者を務めた。1987年(昭和62年)にはワールド・スポーツ会長に就任し、ボクシング界に復帰した。しかし、前年に娘を交通事故で亡くしたことから過度の飲酒に陥り、やがて肝機能障害を患うようになる。1991年(平成3年)4月20日、肝不全のため51歳の若さで死去。原田は「俺は親の葬式でも泣かなかったが、海老原が死んだ時は泣きまくった」とショックを受けた。


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ファイティング原田・青木勝利と並び「フライ級三羽烏」と称された海老原博幸。「カミソリパンチ」と呼ばれた一撃で試合を終わらせるパンチ力を持ち、その強打を駆使して国内歴代2位となる33KOを記録。世界チャンピオンだったポーン・キングピッチをわずか1ラウンドで倒した驚異のプロボクサーであった。反面、その強打はあまりにも強すぎた為、7度も拳の骨折という結果につながり、選手生命を狭める結果につながってしまった。タフな精神力で試合を乗り切り、試合中に骨折をしても激痛を堪えてフルラウンドを戦った。その不屈な精神がアニメ・ポケットモンスターのエビワラーというキャラにまでなった伝説のボクサーの墓は、東京都八王子市の富士見台霊園にある。墓には「松田家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。左横には海老原の功績が刻まれた記念碑「海老原博幸の碑」が建立されている。戒名は「栄光院照誉博幸居士」。
by oku-taka | 2019-12-22 00:25 | スポーツ | Comments(0)