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清水幾太郎(1907~1988)

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清水 幾太郎(しみず いくたろう)

社会学者
1907年(明治40年)~1988年(昭和63年)

1907年(明治40年)、東京市日本橋区(現在の東京都中央区)に生まれる。獨協中学、旧制東京高校を経て、東京帝国大学文学部社会学科に入学。在学中からオーギュスト・コントの研究にいそしむ。中学時代にドイツ語を学んで堪能であったが、フランス語は大学時代に習得した。1931年(昭和6年)、大学を卒業。卒業論文を基にした「オーギュスト・コントに於ける秩序と進歩」で思想界に認められ、社会学者、思想家、ジャーナリストとしての道を歩む。また、東京帝国大学社会学研究室副手となる。1932年(昭和7年)、「唯物論研究会」の幹事に就任。1937年(昭和12年)、『流言蜚語』を発表し、二・二六事件が醸し出した社会心理を同書に著した。1938年(昭和13年)、「昭和研究会」の文化委員となる。1939年(昭和14年)、東京朝日新聞社の学藝部専属となり、雑誌『思想』の編集に参加。1941年(昭和16年)には讀賣新聞社の論説委員となった。第2次世界大戦中は陸軍報道班員として健筆をふるい、終戦時は海軍技術研究所嘱託となった。1946年(昭和21年)、戦後日本の民主化に対応するべく「二十世紀研究所」を設立し、知識人集団を組織する。1949年(昭和24年)、「平和問題談話会」を設立してリーダーとなるなど、戦後は積極的な言論活動を展開した。同年より学習院大学教授。当時、学習院大学に在学していた皇太子時代の明仁親王(後の明仁上皇)が、エリザベス2世の戴冠式のため出席日数が足りなくなり、安倍能成が教授会で「皇太子は特別の身分のかたであり、落第は不名誉なことなのだから、外遊中の見聞や語学の上達を考慮して進級を認めてもらいたい」と外国訪問を授業の代わりとして単位を与えるとする案が出されたが、清水は「異議があります」と手を挙げて口論となったが、清水は他の学生が苦労して単位を取得しているのに皇太子だけを特別扱いするべきではなく、それならば聴講生になっていただければ良いという論旨で反対したとされる。しかし以後、清水と安倍の関係は軋み始める。結局、皇太子は後期に進学できず、聴講生として勉強を続けることとなった。この間、『社会学講義』、『社会心理学』などで、日本の社会学研究に鮮烈な影響を与える。また、『世界』に論文「今こそ国会へ-請願のすすめ」を発表。サンフランシスコ講和条約では全面講和を主張し、内灘や砂川などの基地反対闘争の先頭に立ち、1960年(昭和35年)の安保闘争ではリーダーとして論陣を張っている。戦後の平和運動(=反米運動)において大きな役割を果たしたが、日米両国によって日米安全保障条約の改定が強行されたことを受け、安保闘争を「敗北」と位置付け。左翼陣営を離れ、運動面からは手を引き、専ら著述に専念した。一方、1959年(昭和34年)に刊行した『論文の書き方』は、初版3万部が即日完売し、2刷3万部、3刷3万部も完売。この年のベストセラー第2位となった。同作で林達夫とならぶ優れた日本語の書き手としても評価され、以降も文章の書き方を論じた著書を執筆している。また、昭和30年代半ばころまでは、清水の文章は中学校や高校の国語の教科書にもよく掲載されていた。1966年(昭和41年)、「現代思想研究会」を発足。香山健一・森田実・中嶋嶺雄らを育てた。 同年には著書『現代思想』でマルクス主義を批判し、その思想転換が論議を呼んだ。1969年(昭和44年)、学習院大学教授を退官。学習院大学教授の定年退官は70歳だったが、レジャー施設化した大学に愛想が尽きたことが理由の一つとして、9年の任期を残して61歳で定年前退職した。1月18日午後1時半から、学生・教え子・マスコミ関係者など主催者発表800人で最終講義がおこなわれ、演題のテーマはオーギュスト・コントだったが、機動隊が東大安田講堂を占拠する学生の排除に乗り出した日に当たった。1972年(昭和47年)、『倫理学ノート』を発表。20世紀思想を根本から問い直す作業を続けるとともに、清水研究室を主宰し、警世の思想家としても活躍した。1980年(昭和55年)、『日本よ国家たれ-核の選択』 を発表。反米という観点から平和運動と戦後民主主義そのものを批判。平和運動からの振幅の大きさが論議を呼ぶと共に、核武装の主張をめぐって猪木正道らと論争となった。かねてから親交のあった福田恆存にも転向後に論難され、「私の読後感は不快感の一言に尽きる、怒りではない、寧ろ嘗ての友人、先輩に対する同情を混へた嫌悪感である」と厳しく批判する論文「近代日本知識人の典型-清水幾太郎を論ず」を『中央公論』(1980年10月号)に書いた。同作は論壇以外の一般社会にも反響を呼び、「戦後最大のタブーに挑んで話題騒然清水幾太郎氏の『核の選択』」(『週刊文春』1980年6月5日号)など週刊誌記事にもなり、社会的騒動をもたらした。晩年は天皇制維持、教育勅語再評価、「君が代」の国歌化、「日の丸」の国旗化などを唱え、その姿勢をめぐっては賛否両論が出された。1988年(昭和63年)8月10日午前11時5分、心不全のため東京都新宿区の慶応病院にて死去。享年81。


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昭和を代表する社会学者・清水幾太郎。60年安保闘争の指導者として活躍し、その後、防衛力の増強を主張するなど思想的立場を急速に転換した知識人しとて知られる。その存在の大きさは、久野収が「いまの四十代後半から六十代前半のインテリたちで、清水氏の評論や行動によって深い感銘を一度も受けなかった人物がいるとすれば、それはモグリだといってもよいほどの影響力を及ぼしたのであった」と彼に送った追悼の賛辞からもよくわかる。また、文章の達人としても知られ、ベストセラー『論文の書き方』は、永六輔『大往生』、大野晋『日本語練習帳』に次いで、岩波新書の売り上げベスト3に入っている。輝かしい功績がありながらも、今や埋もれつつある知識人の墓は、東京都八王子市の高尾霊園にある。墓所には洋形の墓が二基建ち、左側に幾太郎が眠る「経験、この人間的なるもの」と刻まれた墓が建つ。右側には墓誌がある。戒名は「本覚玄道居士」。
by oku-taka | 2019-12-08 23:13 | 学者・教育家 | Comments(0)