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寺山修司(1935~1983)

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寺山 修司(てらやま しゅうじ)

詩人・劇作家
1935年(昭和10年)~1983年(昭和58年)

1935年(昭和10年)、青森県弘前市に生まれる。本人は出生について「走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」などと記していたが、父と元妻の九條今日子は青森県弘前市紺屋町生まれとしており、寺山のこうした記述には多分に創作が混じっているといわれる。戸籍上は1936年(昭和11年)1月10日が出生日となっており、これも母によれば、「父の仕事が忙しく、産後保養していたため」という。ただし、戸籍の出生が正しいとの説もある。本籍地は青森県上北郡六戸村(現在の三沢市)。 父は東奥義塾弁論部OBで当時弘前警察署に勤務していたが、幼少期は父の転勤のため、県内各所を転々とする。1941年(昭和16年)、青森県八戸市へ転居。1945年(昭和20年)9月、父がセレベス島で戦病死したとの公報を受け取る。終戦後は母の兄を頼り六戸村古間木(現在の三沢市)の古間木駅前(現在の三沢駅)に転居。古間木小学校に転校し、中学1年秋までを過ごす。母は進駐軍の米軍キャンプで働き、米軍差し押さえの民家に移る。1948年(昭和23年)、三沢市立古間木中学校に入学。母が福岡県の米軍ベースキャンプへ移ったため、青森市内の母方の大叔父の映画館「歌舞伎座」に引き取られ、青森市立野脇中学校(統合されて廃止、跡地は青森市文化会館)に転校する。1949年(昭和24年)、青森市の母方の映画館・歌舞伎座を経営していた叔父夫婦宅に引き取られる。中学2年生で京武久美と友人となり、句作をしていた京武の影響から俳句にのめり込んでいく。在学中は文芸部に入り、俳句や詩や童話を学校新聞に書き続ける。1951年(昭和26年)、青森県立青森高等学校に入学。在学中は新聞部、文芸部に所属し、「山彦俳句会」を結成した。高校1年生の終わり頃には「校内俳句大会」を主催し、全国学生俳句会議を結成。俳句改革運動を全国に呼びかける。1954年(昭和29年)、早稲田大学教育学部国文学科(現在の国語国文学科)に入学。寺山は12歳から13歳頃から短歌を詠み始めたというが、熱を入れて短歌を詠み始めるきっかけとなったのが、短歌研究1954年4月号に掲載され、一般からの公募から選ばれ第一回五十首詠で特選となった中城ふみ子の「乳房喪失」であった。中城の作品は歌壇で大きな反響を生み、短歌は歌壇の主に若手から強い支持を受けたが、寺山もまた中城の短歌に感動し、短歌を詠む意欲を高めた。早稲田大学短歌会などにて歌人として活動を開始した寺山は、第2回短歌研究50首詠(後の短歌研究新人賞)に「父還せ」と題して応募した。短歌研究編集長の中井英夫は寺山の作品を特選とした。中井は特選とした寺山の「父還せ」の発表に際して多くの配慮をし、まず題名を「チェホフ祭」として既存歌壇からの反発などを考慮して17首を削り、短歌研究1954年11月号に第二回五十首詠特選として発表した。しかし、まもなく寺山は激しい批判と反発に晒される。寺山は俳句の世界でも注目を浴びており、寺山の短歌が中村草田男、西東三鬼らの俳句作品の模倣であるとの批判が、俳句界から上がった。楠本憲吉は寺山の短歌に対して「俳句はクロスワードパズルではない」と激しい反発を露わにし、寺山のことを「模倣小僧」と揶揄する声が上がった。模倣問題が明るみに出ると、俳句界から始まった批判は歌壇にも広まり、袋叩きの様相を呈するようになった。一方、混合性腎臓炎を患い、立川の病院に入院。1955年(昭和30年)、ネフローゼと診断されて長期入院となり、生活保護を受ける。処女戯曲『忘れた領分』が早稲田大学の大隈講堂「緑の詩祭」で上演され、それを観た谷川俊太郎の病院見舞いを受け、交際が始まる。1956年(昭和31年)、在学1年足らずで退学。1957年(昭和32年)、第一作品集『われに五月を』、1958年(昭和33年)第一歌集『空には本』を刊行する。1958年(昭和33年)、谷川の勧めでラジオドラマを書き始め、RKB毎日にて「ジオノ」が放送される。1959年(昭和34年)、投稿した二作目のラジオドラマ「中村一郎」(RKB毎日)にて、民放会長賞を受賞。また、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、大江健三郎、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。1960年(昭和35年)、浅利が旗揚げした「劇団四季」で戯曲『血は立ったまま眠っている』が上演される。また、篠田正浩監督作品『乾いた湖』のシナリオを担当し、大島渚と出会う。1961年(昭和36年)にはラジオ・テレビの売れっ子脚本家となった。1962年(昭和37年)、山野浩一と親しくなったことから足繁く競馬場に通うようになり、1963年(昭和38年)牝馬・ミオソチスに心酔して競馬エッセイを書き始め、競馬を人生やドラマになぞらえて語るなどの独特の語り口で人気を博した。同年、『現代の青春論』と題し、「家出のすすめ」をまとめる。この頃、ハツと四谷のアパートでおよそ12年ぶりに同居。しかし、松竹の女優だった九條映子と結婚し、ハツとは別居となった。結婚生活については2人で映画を見に行く事もあったほか、犬好きのため九条がアルバムに犬の写真を貼り、寺山が記録を書き込むなど良好だった。1964年(昭和39年)、放送詩劇「山姥」(NHK)がイタリア賞グランプリを受賞。また、放送詩劇「大礼服」が芸術祭奨励賞を受賞した。1960年代半ば以降からは学研の「高三コース」にて高校生の詩の選者を務めて多くの若い才能を掘り起こしたり、新書館の少女向け詩集レーベル「フォアレディース」を編んだりするなど、「青少年のカリスマ」としての位置づけを強めていく。1967年(昭和42年)、横尾忠則、東由多加、九條映子らと劇団「天井桟敷」を結成。4月18日、草月アートセンターで旗揚げ公演『青森県のせむし男』を上演。6月、新宿末広亭で第2回公演『大山デブコの犯罪』。アートシアター新宿文化で第3回公演『毛皮のマリー』と立て続けに上演した。同作に出演した美輪明宏は、この頃の寺山を「あまりにもシャイで、人の目をみて話せない男」と評している。 同年3月、評論集『書を捨てよ、町へ出よう』が刊行される。1968年(昭和43年)、船橋競馬の騎手から「寺山さんのエッセイは中央競馬寄り」という批判を受けたことをきっかけに、船橋競馬のある騎手と新宿で会談。自身の不明を恥じた寺山は「ユリシーズ」(南関東)の馬主となる。1969年(昭和44年)、西ドイツ・フランクフルトの『国際実験演劇祭』に招かれ、『毛皮のマリー』『犬神』を初の海外公演。同年、カルメン・マキの「時には母のない子のように」の作詞を手がける。1970年(昭和45年)、報知新聞競馬面に「寿司屋の政」、「バーテンの万田」など多彩な人物を登場させて競馬を予想した『みどころ』『風の吹くまゝ』のコラム連載をスタート。これは死の直前まで続き、このコラムは後に『競馬場で逢おう』シリーズとして纏められた。また、 漫画『あしたのジョー』の登場人物、力石徹の葬儀で葬儀委員長を務める。同年、九條と離婚。離婚後も彼女は晩年の寺山のよき協力者となった。1971年(昭和46年)、『書を捨てよ、町へ出よう』で劇映画に進出。サンレモ映画祭でグランプリを獲得した。また、ロッテルダム国際詩人祭に出席し、詩を朗読。ナンシーの演劇祭では『人力飛行機ソロモン』、『邪宗門』公演。ベルリンのフォーラム・シアターでも『邪宗門』公演し、ベオグラード国際演劇祭で『邪宗門』がグランプリを受賞するなど、国内外で幅広く活躍した。1972年(昭和47年)、ミュンヘン・オリンピック記念芸術祭にて、野外劇「走れメロス」を上演。1974年(昭和49年)、映画『田園に死す』が公開され、文化庁芸術祭奨励新人賞、芸術選奨新人賞を受賞。1975年(昭和50年)、杉並区内で上演された市街劇『ノック』が住民の通報により警察沙汰となる。1979年(昭和54年)、肝硬変で入院。1980年(昭和55年)7月13日午後10時ごろ、渋谷区宇田川町で取材中、アパート敷地に住居侵入した容疑で警視庁渋谷警察署に逮捕。アパート経営者の息子は「5年ほど前もしばしばこのアパート付近をうろつき、一度は警察ざたになったこともあったため、また来たと思って警察に届けた」という。容疑を認めた寺山は2日後に釈放され、住居侵入罪で略式起訴され8000円の罰金刑を受けた。このスキャンダルにより、寺山の一切の仕事は無期延期とされたが、寺山は「市街における訪問劇『ノック』の上演地をリサーチしていた中の敷地内立ち入りであり、覗きの現行犯ではない」旨の反論を『週刊朝日』に書いた。渋谷署副署長の清水清七も「ノゾキのノの字も、広報簿には載せていません」と発言している。1981年(昭和56年)、肝硬変の再発で再入院。1982年(昭和57年)、朝日新聞に詩『懐かしのわが家』を発表。パリで「天井桟敷」最後の海外公演を行い、『奴婢訓』を上演。1983年(昭和58年)、東京都港区三田に在住中に肝硬変を発症し阿佐ヶ谷の河北総合病院に入院。その後腹膜炎を併発し、5月4日に敗血症のため死去。享年47。


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鋭い感性とスキャンダラスな世界観で時代を挑発しつづけた芸術家・寺山修司。劇作家、映画監督、詩人、歌人、競馬評論家と様々な顔を持ち、ジャンルを超えて活躍した。特に演劇界においては「アングラの教祖」と呼ばれ、前衛芸術の旗手として多くの人に影響を与えた。その一方、大変シャイで恥ずかしがりやな性格で、青森弁で朴訥に語る口調をタモリがモノマネして話題にもなった。「鬼才」の名を欲しいままに47歳で旅立った寺山修司の墓は、東京都八王子市の高尾霊園にある。生前「墓は建ててほしくない。私の墓は、私の言葉であれば、充分」という言葉を残した寺山だったが、母により同地に建立された。グラフィックデザイナー・粟津潔デザインによる墓には、直筆による「寺山修司」の名が彫られ、頭上に開いた本がデザインされている。墓誌は右側面に刻む。戒名は「天游光院法帰修映居士」。
by oku-taka | 2019-12-08 02:05 | 文学者 | Comments(0)