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松田優作(1949~1989)

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松田 優作(まつだ ゆうさく)

俳優
1949年(昭和24年)~1989年(平成元年)

1949年(昭和24年)、日本人の父と当時、質屋を営む韓国人の母との間に非嫡出子として山口県下関市今浦町に生まれる。出生名は、金 優作。2人の異父兄がおり、兄弟仲は良かったが、次第に自身の出生の秘密に気付き始め、それが原因で孤独を感じるようになる。一方、幼い頃はアクション映画に夢中となり、石原裕次郎や小林旭に憧れて育つ。その後、下関市立神田小学校、下関市立文洋中学校、山口県立下関第一高等学校(現在の山口県立下関中等教育学校)と進学。しかし、「米国へ行って弁護士になれ」との母親からの厳命により、1967年(昭和42年)11月に不本意ながら山口県立下関第一高等学校を2年で中退し、叔母夫妻を頼って米国籍を得る為に渡米。カリフォルニア州モントレー郡シーサイド市のシーサイド高校に入学したが、叔母夫妻の離婚訴訟や言葉のギャップなどに悩み、1968年(昭和43年)9月に母に無断でシーサイド高校を中退し帰国する。長兄一家が居住する東京都豊島区のアパートに居候し、私立豊南高等学校夜間部普通科の4年生に途中編入。1970年(昭和45年)に関東学院大学文学部へ入学する。この頃、友人の兄が「六月劇場」の関係者だったことから演技に興味を持ち始める。1971年(昭和46年)3月、劇団『文学座』の入所試験を受けるも一次の筆記試験で不合格。同年5月、金子信雄主宰の劇団「新演劇人クラブ・マールイ」に入団。ここで最初の妻となる美智子と知り合う。1972年(昭和47年)4月、文学座付属演技研究所十二期生となり、役者に専念するために、6月には大学に退学届を出す。また、無名時代に新宿駅東口のトリスバー「ロック」でバーテンダーを務めていた際に、客として来ていたひし美ゆり子、原田大二郎、村野武範らと知り合い交友を結んでいる。村野は自身が出演していた『飛び出せ!青春』のプロデューサーである岡田晋吉が新人俳優を探していることを聞き、「自分の研究所にちょっと面白い男がいる。」と松田を推薦した。岡田が後で聞いた話によると、村野は優作を優秀な俳優として推薦したわけでなく、前日に麻雀に負けた時の約束で、仕方なく優作を岡田に紹介したということだった。岡田は文学座の稽古場に視察に行くと、芝居に対する体当たりの真剣さと、強引とも思える度胸の良さに驚く。テストでチョイ役に出演させると、迫真の演技にスタッフも度肝を抜かれた。これがきっかけで、1973年(昭和48年)に刑事ドラマ『太陽にほえろ!』にジーパン刑事としてレギュラー出演。その活躍と殉職シーンが話題となる。また、志垣太郎主演の東宝『狼の紋章』にて映画初出演を果たした。同時期、『太陽にほえろ!』出演を機に「現在は松田優作という通称名を使っているので番組の関係者にも知られていませんが、もし僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが失望すると思います」という理由で法務省に帰化申請を行い、日本国籍を取得。これにより、通名だった松田優作が本名となった。1974年(昭和49年)、黒木和雄監督の時代劇映画『竜馬暗殺』で、主演の原田芳雄と共演し、時代劇初出演。続いて澤田幸弘監督、日活制作のコメディ・青春映画『あばよダチ公』で映画初主演を果たす。1975年 (昭和50年) 9月21日、美智子と結婚。長女が生まれるも、女優・熊谷美由紀 (後の松田美由紀) との不倫が原因で1981年 (昭和56年) 12月24日に離婚。美由紀とは『探偵物語』の共演で出会い、「今まで見たことが無いエキセントリックな女だ」と衝撃を受け、「この女から離れられない」と感じたという。1976年(昭和51年)1月31日、前年7月19日に行なわれた『俺たちの勲章』の鹿児島ロケ打ち上げの際、19歳の予備校生に対して共演者と共に暴力を振るい、全治3か月の重傷を負わせた容疑で警視庁新宿警察署に逮捕される。事件の真相は、鹿児島市内の飲食店でスタッフが地元のOLを交えて打ち上げをしていた時、解散近くになってスタッフとOLとの一組のカップルができあがった。打ち上げ終了後、このカップルがタクシーを拾おうとしているのをOLの友人が見つけ、カップルについて行こうとした。そこで松田とEが「野暮なことをするなよ」と引き止めようとしたところ、彼女と押し問答になり、それを目撃した予備校生が木刀を持って駆けつけ、松田に木刀を振り上げた。そこで松田とEが予備校生に反撃した、ということだったが、これにより毎日放送の4月新番組『隠し目付参上』をクランクイン寸前に降ろされ、1年間テレビドラマのレギュラー出演を自粛した。同年3月10日、東京地裁で懲役10月、執行猶予3年の有罪判決を受ける。1976年(昭和51年)5月、東映『暴力教室』 (岡本明久監督) にクランクインし、映画復帰を果たす。また、同年に公開された時代劇『ひとごろし』では、臆病な侍という今までになかった役柄を演じ、時代劇初主演となる。同年7月25日にはアルバム『まつりうた』で歌手デビュー。1977年(昭和52年)、刑事ドラマ『大都会 PARTII』でテレビに本格復帰した。1979年(昭和54年)には村川透監督角川映画『蘇える金狼』、澤田幸弘監督のアクション映画『俺達に墓はない』に主演。また、テレビドラマ『探偵物語』に主演。この頃多くのアクション映画に主演しているが、ボブ・ディランをもじった朴李蘭の名で、劇団の旗揚げも行う。1980年(昭和55年)、村川透監督の東映映画『野獣死すべし』に主演。撮影のために過酷な減量をし、原作のハードボイルドとは異なる鬼気迫る演技で見せた。この時期を境にアクション映画からしばらく距離を置き、演技派俳優への道を模索する。また、70年代後半には、サングラスをかけて原田芳雄の模倣、その後、萩原健一の演技をマネするなど、好きな俳優の演技スタイルを取り入れてしまうことは、映画業界でよく知られていた。この時期には音楽活動にも熱中し、ドラマでの自身の出演場面を減らした回もあった。1981年(昭和56年)、泉鏡花原作の文学作品『陽炎座』、松田優作の楽曲が織り込まれ、かつ、主人公の少年愛的な場面を描いた工藤栄一監督の『ヨコハマBJブルース』に主演。それまでのイメージを一新する役柄を演じる。また『新・事件 ドクターストップ』以降、『新・夢千代日記』『女殺油地獄』『追う男』とNHKドラマへの出演が続いた。1983年(昭和58年)、不倫関係にあった熊谷美由紀と長男・龍平の出産を機に結婚。1986年(昭和61年)、映画『ア・ホーマンス』製作途中で、作品の方向性に関して意見が食い違ったため、監督が降板。自らがメガホンを取ることとなり、これが初監督作品となる。1988年(昭和63年)、深作欣二監督の時代映画『華の乱』では、吉永小百合と共に主役を演じる。この撮影をしている頃から、松田は尿が出なくなり腹がパンパンに張っていたという。その後アメリカ映画『ブラック・レイン』に出演し、念願のハリウッドデビューを飾る。同映画の撮影時点で自身が癌に侵されている事を知るが、延命治療を拒み、出演していた。なお、病気の事実を知る者は、撮影関係者では安岡力也のみであり、周囲にも堅く口止めがされていた。1989年(平成元年)11月6日午後6時45分、膀胱癌の腰部転移により入院中の東京都武蔵野市にある西窪病院 (現在の武蔵野陽和会病院)で死去。享年40。


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今年没後30年を迎えたハードボイルドの名優・松田優作。23歳の時に人気ドラマ『太陽にほえろ!』のジーパン刑事役に抜擢されて一躍スターとなった彼は、数々のドラマや映画に出演し、演技派俳優としての評価を確かなものとした。常に役者としての高みを追い求め続け、カップに注がれた消え物のコーヒーについて「なぜ湯気が立っているんだ!」「これは誰が飲むものなんだ!」など演出家に徹底して食いついて演出面にも追求し、ドラマ『春が来た』で共演した桃井かおりに「あんた、ホームドラマだと思ってナメてるんじゃないの? あんたの演技、アクションスターの松田優作みたいで変!」とダメ出しをされた際には、箸の上げ下げから真剣に取り組み直したという。こうして培った演技力により、映画『ブラック・レイン』で念願のハリウッドデビューを果たしたが、公開直後に病に倒れてしまった。40年の人生を激しく生きた松田優作の墓は、東京都あきる野市の西多摩霊園にある。洋形の墓には「無」の一文字が彫られており、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2019-11-10 18:19 | 俳優・女優 | Comments(0)