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出門英(1942~1990)

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出門 英(でもん ひで)

歌手
1942年(昭和17年)~1990年(平成2年)

1942年(昭和17年)、東京府に生まれる。本名は、加藤 秀男。中央大学を中退後、ポニー音楽スクールに入学。1959年(昭和34年)、都内のジャズ喫茶で歌い始める。以後、運転手、ボーイなど職を転々としながら音楽活動を行う。1962年(昭和37年)、日活第6期ニューフェースに合格し、日活に入社。水木 英二(みずき えいじ)の芸名で約1年間の俳優活動を行い、並行して『東京ロマンチックガイ』で東芝レコードからソロ歌手としてデビュー。1966年(昭和41年)、出門 ヒデと改名し、佐藤由紀(後のアン真理子)と「ユキとヒデ」を結成。ボサノヴァ・デュオとして活動したが、1968年(昭和43年)にユキがレコード会社を移籍したことから解散。同年、イタリア出身、ロザンナ・ザンボンと「ヒデとロザンナ」を結成。デビュー曲『愛の奇跡』が大ヒットし、一躍売れっ子歌手の仲間入りを果たす。1970年(昭和45年)には『愛は傷つきやすく』が大ヒットし、NHK紅白歌合戦にも初出場を果たした。1975年(昭和50年)2月、ロザンナと結婚。このとき、仕事をキャンセルしてハワイで極秘に結婚式を挙げたことから一時的に芸能界から干された。結婚後は主にソロで活動し、作曲家として小柳ルミ子に『星の砂』(1977年、作詞は関口宏)、森昌子に『彼岸花』(1978年)を提供し、ヒットさせている。俳優としても、テレビドラマ『必殺仕事人V・旋風編』や『毎度おさわがせします』(第3シリーズ)、映画は『光る女』『東京上空いらっしゃいませ』等の相米慎二監督作品に出演して活躍した。1989年(平成元年)7月、NHKテレビ『思い出のメロディー』のリハーサル中に突如原因不明の激しい下痢に見舞われる。一旦下痢は治まったものの、同年10月に再発。しかし、病院に行かず仕事を続けていた。年末に医師の診察を受けた結果、結腸癌と判明。妻のロザンナは出門本人にがんの告知をしなかったが、1990年(平成2年)1月に緊急入院。結腸癌の手術時には既にリンパ節・腹膜にも転移が判明し、末期癌の段階にあり手遅れの状態だった。同年3月に一時退院し、3月17日には出門自らが経営していたゴルフショップの新ブランドの発表会の記者会見を行う。しかし出門の身体は明らかに急激に痩せ、目をサングラスで隠すなどをしており、これが出門の最後の公の場になった。同年4月高熱により再入院。診断の結果、結腸癌が肺にまで転移していることが判明した。イタリア出身で、敬虔なカトリック信者のロザンナや愛児らの「生まれ変わっても(出門の生まれ変わりと)家族でありたい」という願いもあり洗礼を受ける。6月15日、大量吐血し意識不明の重体に陥り、6月17日に入院先の東京都内の病院で死去。享年47。


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日本人とイタリア人という異色のコンビで話題となった、ヒデとロザンナ。後に2人は結婚し、晴れて夫婦デュオとなったのだが、ロザンナ曰くヒデは相当のモテ男で女友達も多く、ロザンナの強い押しで結婚にこぎつけることが出来たとのことだった。結婚後は作曲家、バラエティー番組の司会者、俳優とマルチに活躍していたが、まさか自分が47歳であの世の人になるだろうとは思いもしなかったであろう。出門英の墓は、東京都あきる野市の西多摩霊園にある。「加藤家」とある洋形の墓には十字架が飾られ、その手前には趣味だったゴルフボールを模った花入れ、生前の写真と「愛はいつまでも」と刻まれた碑が建つ。

by oku-taka | 2019-11-06 17:33 | 音楽家 | Comments(0)