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山田耕筰(1886~1965)

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山田 耕筰(やまだ こうさく)

作曲家
1886年(明治19年)~1965年(昭和40年)

1886年(明治19年)、東京府東京市本郷(現在の東京都文京区)に生まれる。出生名は、山田 耕作。1896年(明治29年)、10歳で実父を亡くす。実父の遺言で、巣鴨宮下(現在の南大塚)にあった自営館(後の日本基督教団巣鴨教会)に入館し、13歳まで施設で苦学する。1899年(明治32年)、姉のガントレット恒を頼り、岡山の養忠学校に入学。姉の夫のエドワード・ガントレットに西洋音楽の手ほどきをうける。翌年、関西学院中学部に転校。同本科中退を経て、1904年(明治37年)東京音楽学校予科に入学。1908年(明治41年)、東京音楽学校(後の東京藝術大学)声楽科を卒業。1910年(明治43年)から3年間、三菱財閥の総帥・岩崎小弥太の援助を受けてドイツのベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学し、マックス・ブルッフなどに学ぶ。1912年(大正元年)には日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲した。帰国後の1914年(大正3年)、岩崎が組織した東京フィルハーモニー会の管弦楽部首席指揮者を任されるが、自身の恋愛問題により岩崎が激怒し、資金源を断たれ、翌年に解散する羽目となる。1917年(大正6年)、渡米し、カーネギーホールで自作を中心にした演奏会を開き、ニューヨーク近代音楽協会および全米演奏家組合の名誉会員に推挙された。また、小山内薫と組んで劇団「土曜劇場」「新劇場」を創立。新劇運動にも積極的にかかわった。1919年(大正8年)、日本の歌劇運動を推進するため日本楽劇協会を組織。オペラの上演を試みる一方、『堕ちたる天女』『香妃(シャンフェイ)』などを作曲した。一方、欧米でも作曲家・指揮者として活躍した。1921年(大正10年)、文化学院音楽科主任となる。1922年(大正11年)、北原白秋と共同編集の月刊誌『詩と音楽』を創刊。詩と音楽の融合を図り、日本語の語感を生かした歌曲の普及による国民音楽樹立運動をおこした。1924年(大正13年)、近衛秀麿と共にハルビンのオーケストラ楽員と日本人楽員を交えたオーケストラの演奏会「日露交歓交響管弦楽演奏会」を主宰。これを母体に近衛と日本交響楽協会(現在のNHK交響楽団の前身)を設立。しかし、不明朗経理を理由に内紛が勃発。黒柳守綱ら4名を残し大部分の楽員は近衛と行動をともにしたため、山田派は崩壊した。1926年(大正15年)、湘南の茅ヶ崎町(現在の神奈川県茅ケ崎市)に居を構える。オーケストラ楽団の失敗により多額の借金を抱えていたが、同地で再起。日本的な表現、日本語による歌曲を追求し,『赤とんぼ』『この道』『からたちの花』などの名曲が数々生まれる。1930年(昭和5年)、耕作から耕筰へと改名。「山田耕作」と同姓同名の人物が多く、それゆえのトラブルが頻発していたことから、改名に踏み切った。また、山田の指揮姿を見た颯田琴次から後頭部の髪の乱れを指摘され、カツラをつけろと言われたが、カツラを嫌った山田は丸坊主にしたものの、その姿を気に入っておらず、それで名前の上にカツラをかぶせることを考えた。1936年(昭和11年)、レジオンドヌール勲章を受章。1937年(昭和12年)、相愛女子専門学校(現在の相愛大学)教授に就任した。戦時体制が色濃くなった1940年(昭和15年)には演奏家協会を発足させ、自ら会長に就任する。同年11月にはオペラ『黒船』(当初の題名は「夜明け」)を初演。また、皇紀2600年奉祝演奏会ではジャック・イベールの新作『祝典序曲』を指揮する。1941年(昭和16年)、情報局管轄下の「日本音楽文化協会」を発足し、副会長に就任。また、音楽挺身隊を結成し、占領地での音楽指導にも携わる。しかし、将官待遇となったことからしばしば軍服姿で行動したため、後の「戦犯論争」の槍玉に挙げられることとなる。1942年(昭和17年)、帝国芸術院会員に選出。1944年(昭和19年)、日本音楽文化協会の会長に就任。終戦後、自身の戦時中の行動に関して、東京新聞で音楽評論家・山根銀二との間に戦犯論争が勃発。音楽界では唯一の戦争責任論争が行われた。1948年(昭和23年)、脳溢血を発症。以後体が不自由となる。1950年(昭和25年)、日本指揮者協会の会長に就任。同年、放送文化賞を受賞。1956年(昭和31年)、文化勲章を受章。同年、再婚したのをきっかけに戸籍上の名も「耕筰」に改める。1965年(昭和40年)11月初旬、聖路加国際病院に入院していたが、家族が東京都世田谷区成城に広壮な洋館風の邸宅を借りる。同年12月4日、成城の自宅に退院。12月29日午前7時5分、心筋梗塞のため死去。享年79。


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日本において西洋音楽の普及に努めた音楽家・山田耕筰。親しみやすい童謡から交響曲、軍歌、校歌と幅広いジャンルで数多くの名曲を残した。作曲家として活動する一方、日本最初の交響楽団となる東京フィルハーモニー管弦楽団を創設。指揮者として自作を発表するなど、交響楽やオペラの普及にも尽力した。音楽と女性を愛し、日本語の特徴を生かした美しい楽曲を残した山田耕筰の墓は、東京都あきる野市の西多摩霊園にある。洋形の墓には、直筆による「山田耕筰 眞梨子」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「響流院釋?筰」。

Commented by 寛海 at 2024-11-08 17:33 x
法名について、響流院釋耕筰、のようです
by oku-taka | 2019-10-25 16:37 | 音楽家 | Comments(1)