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湯浅憲明(1933~2004)

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湯浅 憲明(ゆあさ のりあき)

映画監督
1933年(昭和8年)~2004年(平成16年)

1933年(昭和8年)、俳優・星ひかるの長男として東京府世田谷区赤堤に生まれる。 その後、京都に移り、京都府立鴨沂高等学校、法政大学法学部法律学科と進学。1957年(昭和32年)、大学を卒業し、大映東京撮影所監督室に入社。衣笠貞之助、島耕二、井上梅次、川島雄三らに師事した。1964年(昭和39年)、歌謡青春映画『幸せなら手をたたこう』で監督デビュー。しかし、同作はシリアス路線とコメディ路線のどちらかにするのか思案していた最中にプロデューサーが挙がってきた脚本を強引に合わせてしまったため中途半端な出来になってしまい、興業的に失敗した。1965年(昭和40年)、『大怪獣ガメラ』を監督。同作は東宝に対抗すべく企画されたもので、その白羽の矢にあたったのが湯浅だった。元々特撮を撮りたかったというわけではなく、ほとんど前作の失敗による罰ゲーム的な仕事として回ってきたようなものだったが、子どもが純粋に楽しめる怪獣映画にしようと試行錯誤をしながら映画を完成させた。2作目は前作に比べ大型予算が組まれたが、デビュー3年目の彼には「大作監督にはまだ早い」とする本社の意向で特撮監督のみを務めた。3作目以降は本編と特撮、両方の監督を担当。子ども達を飽きさせない演出が最重点に置かれ、子供が純粋に楽しめる怪獣映画として人気シリーズに育て上げた。その一方、渥美マリ主演の「お色気映画」や関根恵子主演の「高校生シリーズ」など社員監督として末期大映の人気シリーズを支えた。1971年(昭和46年)、『ガメラ対深海怪獣ジグラ』を発表。その後、『成熟』を紆余曲折の末に完成させたが、同作が大映映画として最後の作品となった。次回作の構想(『ガメラ対双頭怪獣W』)があったものの、大映が倒産。倒産の報を聞いた後、湯浅は1人倉庫にこもり、くやしさのあまり周り一切を叩き壊したという。その後はテレビドラマ界に転出し、主にテレビドラマの演出に携わり、『岡崎友紀18歳シリーズ』『アイちゃんが行く!』等の青春コメディや、『アイアンキング』『コメットさん』『ウルトラマン80』等の児童向けの特撮作品も演出した。特に円谷プロからは以前から『ミラーマン』の監督として依頼されていたが実現せず、『ウルトラマン80』でようやく参加することになった。番組には企画段階から参加しており、矢的猛が教師という設定にも意欲的だったが、スタッフ内外からこの設定には否定的な意見が多く、番組途中でこの設定が無くなってしまったことには残念がった。 平成に入り、ガメラシリーズが復活した際は、その記念特番にも出演。しかし、大映時代の要素を排除した内容の平成ガメラに対しては否定的なコメントをしている。晩年はカラオケの映像の演出などを手がけていたが、2004年(平成16年)6月14日、脳梗塞で死去。享年70。


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昭和のガメラシリーズを撮った映画監督・湯浅憲明。映画監督ながら恰幅がよいこととその丸顔で多くの撮影関係者に愛され、『ガメラ創世記 -映画監督・湯浅憲明-』によると、『大怪獣ガメラ』撮影時には島耕二から「ガメラはぬいぐるみではなく、湯浅監督本人がそのまま演じればいい」とからかわれたという。大映倒産後はテレビドラマ界に活路を見出した湯浅憲明。ガメラを人気ブランドに押し上げた男の墓は、東京都多摩市の吉祥院にある。墓には「先祖代々之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。入口には「N.YUASA」と彫られた碑が設置されている。戒名は「憲徳道明居士」。

by oku-taka | 2019-10-20 18:03 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)