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奥野健男(1926~1997)

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奥野 健男(おくの たけお)

文芸評論家
1926年(大正15年)~1997年(平成9年)

1926年(大正15年)、東京都渋谷区に生まれる。東京府青山師範附属小学校を経て、麻布中学校に進学。在学中、小山誠太郎に感化され自然科学、就く天文学、有機化学に興味を抱く。同時期、吉本隆明と出会い、吉行淳之介や北杜夫を知る一方、伊藤整の影響を受ける。1947年(昭和22年)、東京工業大学附属工業専門部化学工業科を卒業。その後、東工大化学専攻(旧制)に進み、遠山啓に科学全般を、岩倉義男に高分子化学を学ぶ。在学中の1952年(昭和27年)に『大岡山文学』に『太宰治論』を発表。フロイトやミンコフスキーを武器とした太宰の深層心理の分析が冴え、 マルクス主義運動から転向した倫理的自責に苦悩する内面をみずみずしい感受性によって描き、本格的な太宰論として多くの読者を得た。大地主の子に生まれ無頼に生きた太宰の姿に共感した評論は、後に文庫化され、評論では異例のロングセラーとなり、批評家の道を確立した。1953年(昭和28年)、東工大化学専攻を卒業し、東京芝浦電気に入社。中央研究所に勤務し、印刷回路積層板の研究からトランジスタの開発に取り組む。1954年(昭和29年)、服部達らと『現代評論』を創刊。1958年(昭和33年)、吉本隆明、井上光晴らと「現代批評」を創刊。一方、技術者としては、1959年(昭和34年)に「プリント配線用銅貼積層板の研究とその実施」で大河内記念技術賞を受賞。1961年(昭和36年)に東芝を退社したが、1963年(昭和38年)に「銅被覆積層板の製造方法」で科学技術庁長官奨励賞、1964年(昭和39年)に特許庁長官賞受賞を受賞する。東芝退社後は、 左翼文学批判の評論や、太宰と同じ無頼派の作家の「坂口安吾」論などを発表。 現代と大正・昭和の作家論はおびただしい数に上る。また、1961年(昭和36年)に多摩美術大学、日本大学芸術学部の講師を務め、1962年(昭和37年)には多摩美術大学助教授に就任。1970年(昭和45年)には教授となる。多摩美大では当初自然科学の講座を担当していたが、やがて『太宰治論』により文芸評論家として遇されていたため文学の講座に集中する。多摩美術大学の教員としては、広い視点から宇宙的な自然科学、そして芸術文学の本質を少しでも学生に植え付けようと30余年に渡り尽力した。1960年代前半には「政治と文学」というプロレタリア文学以来の観念を厳しく批判し、民主主義文学を否定したことで、文学論争の主役となった。1963年(昭和38年)に発表した「“政治と文学”理論の破産」は、新日本文学会と吉本隆明の間に大論争をひき起こした。1972年(昭和47年)、作家とその生まれ育った風土との関係に注目した「文学における原風景」を発表。のちの文学的都市論の原形となった。1976年(昭和51年)、「産経新聞」の文芸時評を担当。文学における「原風景」という概念を打ち出した。1984年(昭和59年)、「“間”の構造」で平林たい子文学賞を受賞。1991年(平成3年)に多摩美術大学の理事に就任。1993年(平成5年)、「三島由紀夫伝説」で親交のあった三島由紀夫の文学を論じ、翌年に芸術選奨文部大臣賞を受賞。1995年(平成7年)、紫綬褒章を受章。1997年(平成9年)、多摩美術大学を退職。同大学名誉教授となったが、11月26日に肝不全のため死去。享年71。 没後、勲四等旭日小綬章を追贈された。


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太宰治評論の第一人者として知られる奥野健男。東芝の社員から文芸評論の世界に身を投じた異色の経歴を持ち、文壇に大きな存在感を示した。特に伊藤整・高見順・室生犀星・島尾敏雄の作家論は、「ナルシシスムが自己否定として現れる作家にたいする奥野の偏愛を示している」とまで言われた。奥野健男の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「奥野家之墓」とあり、左側に墓誌がある。戒名は「健温院芸林文宗居士」。

by oku-taka | 2019-10-13 17:33 | 評論家・運動家 | Comments(0)