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新橋喜代三(1903~1963)

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新橋 喜代三(しんばし きよぞう)

歌手
1903年(明治36年)~1963年(昭和38年)

1903年(明治36年)、鹿児島県の種子島、熊毛郡北種子村(現在の西之表市)に生まれる。本名は、中山 嘉子。旧姓は今村、旧名はタネ。(読み方は同じで「タ子」と書かれた書物もある)。間もなく両親と鹿児島市に移り住む。父は畳職人であったが、水商売を好み、旅館や料亭など幾多の商売を手がけるも上手く行かず、鹿児島市内を転々として過ごした。鹿児島市唐湊に住んでいた頃に尋常小学校へ入学するが、父の度重なる商売の失敗で夜逃げをするに至り、宮崎県小林市に移り住んだ後、家計を助けるため尋常小学校を5年で中退。近所の芝居小屋「新芸座」に住み込んで売り子の仕事をするようになった。1916年(大正5年)、小林で父が営んでいた商売が軌道に乗り、一家は鹿児島へ戻る。鹿児島に戻った一家は、鹿児島駅近くの小川町で小さな果物屋を開いた。1916年(大正5年)、果物屋の常連客が、父に「タネを芸者にしないか」と相談しているのを耳にしたタネは、小さな果物屋の商いで家族8人が暮らして行く大変さ、商売が軌道に乗ってもまたいずれ父が新たな商売に手を出す事を慮り、翌朝両親に芸者になりたいと打ち明けた。両親は当然の事ながら反対するが、タネの熱心な説得は続き、鹿児島市の西券番に属する芸者置屋「都屋」へ身代金100円と引き換えに芸者の仕込みとして入る。同年9月1日、同じ置屋の芸者八重子の妹分として八重丸の名で見世出しするが、南券番より移籍して来た同僚芸者の小染から南券番の芸の水準の高さを聞かされた八重丸は、芸の水準のみならず客層や料亭の格も上級である南券番への移籍を希望し、見世出しからわずか3ヶ月ほどで南券番の置屋「松屋」に移り、12月15日に先輩芸妓千代治の妹分として、置屋の主人の命名により「成金」の名で見世出し(周囲から名前について冷やかされたため、改名を願い出て翌正月より「千成」となる)。当時鹿児島の花柳界に所属する芸者は関西出身の者が大半を占め、地元出身の芸者は極少数であったため、非常に珍しがられた。千成も唄に三味線にと熱心に取り組み、馴染みの客なども出来て順調だったが、旦那(スポンサーのこと)を持つ事を拒否していたため、着物代などの経費は自腹で賄わねばならず、その為に借金が増えてった。1919年(大正8年)5月、西券番へ紹介した父の果物屋の常連客と街中で偶然会ったところ、台湾で働く芸者を探しに来ている人が、前月行なわれた券番の温習会を見て、千成の事を気にかけているという話を聞き、借金を清算するために台湾行きを希望する。話はトントン拍子に進み、5月25日に下関から信濃丸で台湾へ渡る事となる。年季は4年で1,500円の前借りという条件であった。台湾では置屋「高砂」に所属し「蔦奴」と改名して台湾での芸者稼業をスタートさせた。一方、当時仕事で台湾に駐在していた後の写真家木村伊兵衛と恋に落ちる。1922年(大正11年)、伊兵衛が日本へ引き上げることとなり、日本が恋しくなった蔦奴も鹿児島への引き上げを決意する。年季があと1年近く残っていたことによる前借金の清算と、台湾で新たに作った借金の合わせて1,500円を請求されたが、迎えに来た父が交渉して1,300円に負けてもらい、そのうち800円を現金で支払い、残りは証文にして後日の支払いを約束、再び鹿児島へ戻ることとなった。鹿児島に戻った蔦奴は、南券番の置屋「喜楽」に所属。 1922年(大正11年)、妓籍名を「喜代治」と改めてお披露目。鹿児島に戻ってからも伊兵衛とは手紙を通じて交際は続いたが、次第に伊兵衛からの連絡が滞るようになり、11月にはとうとう手紙の返事が来なくなった伊兵衛の気持ちを確かめる為に、置屋には熊本へ行くと偽り、生まれて初めて上京。東京では伊兵衛の両親とも初めて対面し、本人との関係も修復して10日後には鹿児島へ戻るが、12月20日には伊兵衛へ思いが高まり、誰にも告げぬまま発作的に夜行列車に飛び乗り東京へ向かう。しかし喜代治の行動を察知した券番が後を追って上京し、鹿児島へ帰るよう説得するも聞き入れなかったため、さらに父が上京し、結果鹿児島へ連れ戻された。その際、伊兵衛の両親との仲も円滑であったことから、伊兵衛と両親は喜代治との結婚を視野に入れ落籍を願い出たが、一括で落籍に要する費用を支払えなかったため父に断れている。1923年(大正12年)1月末、伊兵衛の母親から立腹した内容の手紙が届き、喜代治が知らぬ間に父が伊兵衛の両親宛に「娘は伊兵衛との仲をあきらめた」と偽りの内容の手紙を出していた事を知る。すぐさま弁解の手紙を出そうとしたが、実際問題としてなかなか進展しない伊兵衛との仲や、父をはじめとする周囲の反対に、この恋の成就は無理だと悟った喜代治は別れを決意し、伊兵衛の母親宛にその旨を記した手紙を送った。伊兵衛と別れた喜代治は一層芸に打ち込み、それに人柄も相まって人気も上昇していった。昭和に入ると、ますます喜代治の人気は高まり、地元の名士の宴席はもちろんのこと、鹿児島を訪れた政財界の要人の宴席には決まって喜代治が呼ばれるようになる。1929年(昭和4年)、鹿児島を訪れた大倉喜七郎、大川平三郎、松野鶴平、渋沢栄一らの宴席も務めており、彼らは後に喜代治が新橋花柳界に移籍してからも贔屓の客となった。この頃、先輩芸者一八が得意とし、別名『一八節』とまで言われた『小原良節』を直々に教わり、一八が京都へ移った事からその後継者となった喜代治は、NHK熊本放送局から『小原良節』『はんや節』『よさこい』『三下り』『げんや節』などを放送して名をあげ、度々熊本放送局へ呼ばれるようになり、コロムビアからの依頼により大阪のスタジオでレコーディングも行なった。1930年(昭和5年)、鹿児島では昭和恐慌以来なかなか回復しない経済の閉塞感を打開する気運を作ろうと、鹿児島商工会議所の主催、鹿児島市・鹿児島県の後援により「國産振興博覧會」が企画され、その宣伝ソングを作る話が持ち上がる。作家として指名されたのは作詞が西條八十、作曲が中山晋平の両巨匠で、1931年(昭和6年)、その二人が取材のために鹿児島を訪れ、料亭「青柳」での接待の宴席に呼ばれたのが喜代治であった。その席で喜代治は一八直伝の『小原良節』を披露。西條は歌詞の取材のために鹿児島市内各地を歩き回っていたが、作詞が終わらないことには作曲出来ないため、中山は滞在中度々喜代治を呼び出しては鹿児島の民謡を聞いたりして過ごした。この時に喜代治は一八から教わった『小原良節』の歌い方について、自分なりの工夫をした点の善し悪しを相談したところ、喜代治なりの歌い方で良いと励まされた。西條の詞の完成を待って中山の作曲が始められ、滞在6日目にだいたい出来上がると、市内3券番(南・西・中券番)の芸者代表として喜代治が中山より直接歌唱指導され、他の芸者を前にしての模範歌唱を行なった。また振り付けも中山自らが行ない、それを喜代治に教えて喜代治から他の芸妓へ伝えられた。 ちなみにその國産振興博覧會の宣伝ソングとして出来上がったのは、当時既に人気歌手となっていた芸者出身の藤本二三吉が歌った『鹿児島小唄』で、博覧会の会場に設けられた演芸館で連日鹿児島市内3券番の芸者連中が舞踊と演奏でこの曲を披露し、喜代治も南券番の唄方として名を連ねている。鹿児島滞在中から喜代治に恋心を寄せていた中山は、鹿児島を離れた僅か4ヶ月後、歌を作る為に西條と共に訪れていた福岡県久留米市から、喜代治に会うためだけに西條を伴って再度鹿児島を訪れている。また喜代治も中山の人柄に触れ、尊敬の念が次第に恋愛感情へと変わって行った。同年の8月1日、東京の日本橋三越で行なわれた鹿児島物産展のアトラクションに出演するため上京。アトラクション出演の翌日8月2日、中山の紹介によりビクターで『小原良節』『はんや節』『よさこい節』『三下り』の4曲をレコーディングした。 この上京の際、同郷人で貴族院議員、財界の重鎮でもあった樺山資英、後に飯野海運社長となる俣野健輔から新橋金田中での宴席に呼ばれ、その席で披露した芸が好評を博し、東京への進出を勧められた。それを中山に話したところ大いに賛同を得て喜代治は上京を決意。鹿児島へ戻った喜代治は、当時世話になっていた旦那に東京行きの決意を伝えて許しを得、新橋の置屋「金三升」へ所属する事を決め、1931年(昭和6年)10月22日、鹿児島商工会議所会頭、料亭関係者、芸妓組合50人以上の見送りを受けて上京。正式に新橋に所属する事となり、その際に先輩芸者に読み方が同じの喜代次がいたため、名を「喜代三」と改める。その美貌と優れた芸がたちまち評判となり、上杉愼吉、大倉喜七郎、松本學、橋本欣五郎、中島健蔵、杉山平助など、政財界をはじめとする当時の名士の座敷を勤めた。新橋に移ってからも宴席では鹿児島民謡を中心に九州民謡を披露し好評を得た。1932年(昭和7年)7月、新橋の置屋の看板を譲りたいという話があり、中山の出資を得て2,500円で取得。「喜代之家」として届け出て営業を始めた。秋にはポリドールの専属となり、「新橋喜代三」の名で流行歌『わしゃ知らぬ』を吹込み、1933年(昭和8年)6月に発売。しかし、芸者と流行歌手の兼業を快く思わなかった新橋の先輩芸者らからレコード会社の専属とステージでの活動を止めるよう咎められて対立するようになり、市村羽左衛門らも仲裁に入ったが決裂。同じ新橋の烏森花柳界へ移籍し、芸苗字「新橋」を守る。1934年(昭和9年)1月、『鹿児島小原良節』を出し大ヒット。便乗した他社からも次々に『鹿児島小原良節』のレコードが発売されるほどのブームとなった。翌年には『明治一代女』もヒットした。この間、中山とは既に愛人関係となっており、熱海や箱根仙石原の別荘で逢瀬を重ねながらも、中山の依頼で敏子夫人に三味線を教え、喜代三は中山から発声のレッスンを受けるため中山家に出入りしていた。中山は喜代三を独占したいがために引退を勧めたこともあったが、芸能界に未練のあった喜代三はそれを拒否。そのままの関係が続いた。 1935年(昭和10年)、日活の山中貞雄監督の映画『丹下左膳余話 百萬両の壺』でヒロインお藤役で出演。幅広い活躍をみせた。1936年(昭和11年)10月15日、かねてより療養中であった中山夫人の敏子が45歳の若さで死去。夫人没後の中山の身の回りの世話を案じた周囲の勧めにより、中山は上京以来愛人関係にあった喜代三にプロポース。1937年(昭和12年)12月3日、銀座の山野楽器社長山野政太郎夫妻の媒酌により丸の内会館で結婚。それを機に引退。ポリドールとの契約があと1年残っていたが、他社への移籍ではなく、結婚し家庭に入るということで不問となった。戦時中は熱海へ疎開し、戦後も引き続き熱海で暮らした。1950年(昭和25年)頃になると、戦後の混乱も一段落し、民謡が流行する兆しが見えると、ビクターからの依頼で三重県の出身で渋谷から出ていた菊丸という芸者を教えるようになる。その後、ビクターの社長から「『喜代三』の名前を譲って欲しい」と中山に話があったが、中山が断り、彼女は旧名の文字を変え同じ読み方で「喜久丸」と名付けられた。『喜代三』の名前については、直弟子であった「喜代丸」からも譲って欲しいと相談があったが、中山が許さなかった。1952年(昭和27年)12月30日、中山が65歳で死去。中山は臨終間近の病床で喜代三の手を取り「よく支えてくれたね」と労った。中山の没後しばらくは抜け殻のようになっていたが、歌手復帰を決意。中山の一周忌を機に企画されたNHKの「民謡をたずねて」に喜代丸、喜久丸と出演。復帰にあたってはキングをはじめ、古巣のポリドール、コロムビアからも誘いがあったが、結局ビクターに決定。1954年(昭和29年)3月にビクターへ入社し、喜代三の名で『小原良節』『ひえつき節』『上州小唄』『田原坂』『キンキラキン』などを吹込み、秋には博多を振り出しに18年振りに九州各地を演奏旅行を行った。その後も引き続き熱海で暮らしながら、1958年(昭和33年)には自叙伝『多情菩薩 喜代三自伝』を出版。その他中山晋平音楽祭などに関与したり、中山の作品の普及に努めるなど熱心に活動したが、1963年(昭和38年)3月23日、胆管癌のため死去。享年59。


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『明治一代女の唄』のヒットで知られる新橋喜代三。鹿児島に生まれた美声の美人芸者が新橋の芸妓となり、『鹿児島小原良節』『明治一代女の唄』をヒットさせ、映画女優としても活躍し、果ては作曲家・中山晋平夫人となる、というシンデレラストーリーを絵に描いた人だった。歌手としての活動期間は短かったものの、大ヒット『明治一代女の唄』が多くの歌手によって歌い継がれ、新橋喜代三の名も忘れられることなく今の世に知られている。晩年は中山晋平の功績を残すべく奮闘した新橋喜代三の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「中山家霊塔」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名はない。

by oku-taka | 2019-10-13 14:23 | 音楽家 | Comments(0)